加古川陸軍飛行場

加古川市尾上町には、加古川陸軍飛行場があった。
個人的なことではあるが、私は加古川と言う地名を知ったのは陸軍の飛行場があったからで、初めて加古川に足を運んだのは、当時、JM加古川ジムに所属していた西岡利晃(後のWBC世界スーパーバンタム級チャンピオン)の日本タイトルマッチを観に行った時である。どうでもいい話ですが・・・
その加古川飛行場は、昭和12年に工事が始まり、昭和13年に使用開始となる。
その後、実施部隊も駐留したようだが、他所に移転し、後半は教育部隊が主役となったようで、本土防空戦でも加古川飛行場の名称を目にすることは少ない。
跡地は工場になっており、詳細は不明だが大きな以降は皆無の様である。
今回の訪問に際して、「大日本者神國也」さんを参考にした。

加古川飛行場 (3)
民家の庭の畑に残る境界石。彫られた文字は「陸軍」だけであろうか?ただ、移設なのでは?と感じた。

加古川飛行場 (4)
こちらは、文字が読めないため、飛行場の物かは不明

加古川飛行場 (5)
頂部には、境界を示す線がある。

加古川飛行場 (6)
更に、門柱が片方だけ残されている。これは、飛行場のの門柱を移設したと推測するも、詳細は不明

加古川飛行場 (8)
反対から見る。門柱の両脇にヒンジがある様である。

加古川飛行場 (7)
また、表札を掛けるフックらしき金属もある。

加古川飛行場 (9)
工場敷地内にある、防火水槽と思われる貯水槽。当時の物かは不明。

加古川飛行場 (1)
飛行場から東に約1km、拙ブログ第4回目に公開した「陸軍航空通信学校尾上教育隊」に隣接して作られた、加古川第一陸軍病院の物と思われる境界石が残っている。

加古川飛行場 (2)
頂部に境界を示す線がある。

加古川陸軍飛行場の営門かも?と思われる門柱の場所はこちら

大分陸軍墓地2

さて、「大分連隊」の記事中にも書いたが、歩兵第72連隊はシベリア出兵の際、部隊全滅の被害を受けている。
これは、「ユフタの戦い」とも言われ、大正8年2月、第3大隊長率いる田中支隊はユフタ付近にいる敵の攻撃を命ぜられ、1個小隊を偵察に向かわせたが、敵に包囲され負傷者3名のほか戦死する。小隊の救援に向かった本隊も、数に勝る敵の攻撃を受け奮闘するも全員戦死を遂げた。
更に支隊に配属されていた野砲兵12連隊第5中隊の将兵(1個小隊)は本隊の救援に向かうもほとんどが戦死した。(野砲兵12連隊第5中隊の碑は、小倉駐屯地に残されている。)
「ユフタの戦い」については、祖国は危機にあり 関連blogさんに詳しく書かれている。
現在、大分陸軍墓地に残されている個人墓は、この戦闘による戦死者の物である。(極少数であるが、満州事変の戦死者の墓もあることを後日知った。)これは、歴史の浅い連隊で墓地に余裕が有ったのもあるだろうが、内政干渉で、ロシア国内の混乱に乗じた火事場泥棒的な出兵により(個人的な見解です。)肉親を失った遺族は、青森(幸畑)陸軍墓地同様、合葬碑では納得しなかったのではなかろうか?
この墓地は、当時のままの状態が維持されていると思う。

大分陸軍墓地 (7)
ユフタ戦死者の墓

大分陸軍墓地 (8)
ここも他の陸軍墓地と同様、階級によって墓石の大きさや場所が区別されている。

大分陸軍墓地 (9)
もちろんこれらは、下士官兵の物であり、1回の戦闘でこれだけの戦死者が出たことに驚きを感じる。

大分陸軍墓地 (10)
上方から見る。

大分陸軍墓地 (11)
将校の墓 大尉なので中隊長クラスか?

大分陸軍墓地 (12)
ユフタで戦死したことが書かれている。

大分陸軍墓地 (13)
後に調べると、この2基は満州事変戦死者の墓の様であるが、何故、個人墓が建てられたかは不明

大分陸軍墓地 (14)
ユフタでの将校戦死者の墓 こちらは3月3日、ホチカレオ(?)戦死となっている。後方基地(野戦病院)で息を引き取ったということだろうか?

大分陸軍墓地 (15)
4基並んだ個人墓

大分陸軍墓地 (16)
特務曹長の墓もある。

大分陸軍墓地 (17)
5基並んだ墓 これらも将校の墓であろう。

大分陸軍墓地 (18)
一番右が、田中支隊長の墓である。

大分陸軍墓地 

兵営の南西に大分陸軍墓地がある。
この墓地は大分に兵営が置かれた明治41年に造られた。戦後は大蔵省が管理していたが、昭和30年、大分県に払い下げられ、以後、県が管理している。

大分陸軍墓地 (2)
墓地の入口

大分陸軍墓地 (3)
入口には、境界石が残るが、オリジナルの場所なのか移設かは不明

大分陸軍墓地 (1)
管理棟 当時の物かと思ったが、状態が良すぎるので戦後に建てられた物だろうか?

大分陸軍墓地 (22)
一部、レンガで作られている。(台所など火を使う場所だと推測する。)

大分陸軍墓地 (4)
墓地に入ると、当時の物と思われる手水台がある。

大分陸軍墓地 (5)
旧衛戍地埋葬者合祀之碑 この碑には、明治三十七八年戦役(日露戦争)戦歿者のほか、明治四十一年韓国事変戦歿者の合祀碑であり、昭和8年7月建立である。
大正三年乃至九年戦役とは、第1次世界大戦での対独戦と引き続き行われたシベリア出兵の総称だが、明治四十一年韓国事変とは何を指すのか?

大分陸軍墓地 (6)
済南事変戦死者之碑 昭和4年3月建立

大分陸軍墓地 (19)
満州事変戦歿者合祀碑 昭和9年8月建立

大分陸軍墓地 (20)
納骨塔 戦後の物と思われる。

大分陸軍墓地 (21)
墓地の案内図には、記念館と書かれているが、こちらにはシベリヤ記念堂とされており、遺品等が収められていたようだ。
建築時期は不明だが、大正期若しくは、昭和初期と推測する。

大分陸軍墓地の場所はこちら

【コラム】第5回 現地での失敗 移動手段編

前回のコラムで、現地での移動手段は自転車と書きましたが、現地で移動時の失敗を書きたいと思います。

1.行きは良い良い・・・
ある遺構、駅の南にあります。レンタサイクルを借りてそこに向かいましたが、駅から遺構までがなだらかな下りだったみたいです。
訪ねたのは冬だったので、北風が追い風となっていたようで帰る時は向かい風の上り・・・
群馬に行ったときは、それこそ強烈なからっ風で全然前に進めず、予定の電車に乗れませんでした。

2.初の電動自転車
淡路島に行ったときのこと。洲本の観光案内では電動アシスト自転車を貸してもらえます。
由良要塞の山道もスイスイです。ラクチンなのをいいことに、山を上り下りしました。はい、ご想像の通りです。
途中でバッテリーが切れました・・・
すると今までアシストしてくれていた電動モーターが、猛烈な負荷になります!
平坦な道では、立ち漕ぎ。登りは自転車から降りて押さなければ進めません。しかも、返却時間が近づきます。到底間に合わず、遅れる旨を観光案内に連絡して、30分の遅刻で案内に着いたときは、まさに「クララが立った!クララが立った!」状態に・・・

3.タダほど
ある駅では、無料で自転車を貸してくれました。これは、放置自転車を整備して貸してくれるのですが、一抹の不安が・・・
はい、嫌な予感は当たりました。ペダルがグラグラでボディーに当たります。しかも、ブレーキもほとんど効きませんでした。
しばらく進みましたが、折り返して交換してもらいましたが、時間のロスが・・・

4.地図では分からない
現地に行くと、強烈な坂道だったことが・・・
1でも書きましたが、ずっとなだらかな坂道だったことは数知れず・・・

5.寒い?暑い?
基本、遺構探訪は冬ですので、自転車での移動は寒いです。ただ、坂道だと、汗をかくことも多いです。上着を着ると暑いけど、脱ぐと汗が冷えて寒くて仕方がない。でも、また着ると、汗が流れる。電車に乗ったら、シャツが汗でベッショリってことも。

6.バス路線図
自転車以外には、バスでの移動も多いですが、バスの路線図って略図が多くて地理的な関係が分かり難いと思いませんか?
また、電子地図にはバス停は記載されているけど、何というバス停かは書かれていないことが多いです。
こちらの路線図クリック→路線図をご覧ください。桶川の飛行場を訪ねた際に見付けたのですが、見やすいですよね。
過去には、次の遺構に向かうため、電車に乗って移動し、目的のバスに乗りましたが、そのバスが今までいた遺構の前を通過した時は「はぁ~」とうなだれました。

7.現地での移動距離が大きい場合や、電車でのアクセスが難しい場合は、レンタカーを借ります。
我家は車を所有してないので、年に数回は運転技量維持の意味を含めてレンタカーでの探訪を行っています。
さて、レンタカーでの一番の問題は、ナビです。慣れると間違わないのですが、出発してすぐは、そのナビの特性が分からず、手前で曲がってしまったり、逆に曲がらないで直進したりしてイライラしてしまいます。
ある時は、その車がアイドリングストップだったので、ブレーキを緩めても、発進までに時間差があり、初めてアイドリングストップの車に乗ったので、アクセルを踏みました。するとナビが「急発進です。安全運転してください。」と言います。第一声がそれですからね!人間だったら殴ってますよ!!!
あと、ナビ通りに行ったら、畦道みたいな路だったり、農家の裏道で道幅が狭く両脇が水路になっていて、タイヤに半分がはみ出しているなんてことも・・・
土地勘がないのが失敗の原因ですね。

大分連隊

大分市王子新町には、大分連隊の兵営があった。
明治41年、日露戦争後の軍拡により、歩兵第72連隊が編成され、この地を衛戍地とした。
シベリア出兵の際、第12師団が派遣されることとなり、連隊は大正7年8月、シベリアに進軍した。
翌大正8年2月、第3大隊長率いる田中支隊はユフタ付近での戦闘で全滅する。
大正14年5月、所謂、宇垣軍縮で連隊は廃止になり、代わりに小倉から歩兵第47連隊が移駐し、大分連隊となる。
昭和3年4月には、済南事変に出動、1年後に帰国した。
昭和6年9月に満州事変勃発、連隊は昭和7年12月に出動し、熱河作戦に従事、その後は長城攻略戦に参加し、万里の長城を越えて河北省に進出し河北作戦に従事、昭和8年10月、大分に凱旋した。
昭和12年7月、支那事変勃発とともに出動、南京作戦、徐州会戦、武漢攻略戦に参加する。
昭和15年に入ると宣昌作戦に参加、翌16年2月には海南島に、9月には台湾に移動した。
太平洋戦争勃発で、比島攻略戦に参加、約1ヶ月でマニラを攻略した。その後、スラバヤを攻略し、チモールの守備に就きながら終戦を迎える。(ノーベル書房:わが連隊より抜粋)
歩兵第47連隊が出征後、歩兵第147連隊が編成されるが、その後の兵営については不明であり、兵営跡地には遺構はほとんどない。

大分連隊跡地 (4)
境界と思われる場所には排水溝があるが、詳細は不明

大分連隊跡地 (1)
排水溝から道路を挟んだ反対側には、陸軍用地の境界石が残っている。

大分連隊跡地 (2)
正面から見る。

大分連隊跡地 (3)
正面のみ整形され枠取りされた珍しい形をしている。
ただ、この境界石は設置場所から、兵営以外を示す物の可能性があるが、大分連隊関連の物であることは間違いないだろう。

大分連隊境界石の場所はこちら
プロフィール

神崎 伸介

Author:神崎 伸介
酒とナマコ酢と、焼き魚(特に、タチウオ、エボダイ、ニシン)をこよなく愛し、日々全国の旧軍遺構を訪ね歩く自他共に認める、正統派の変人です。


紹介する遺構の説明は正確を心がけてますが、間違いや情報があれば、是非とも教えてください。
また、ここで紹介する遺構は訪ねてから紹介するまでに、時間が経っている物も有り、必ずしも現状で無い場合がありますのでご注意ください。
本ブログに掲載されている写真の無断使用は禁止します。

Twitter始めました。@Kanreport0726

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