歩兵第45連隊

鹿児島市下伊敷には歩兵第45連隊の兵営があり、跡地は鹿児島県立短大や玉江小学校などになっている。
歩兵第45連隊は、日清戦争後の軍拡により明治29年秋に熊本で編成され、翌30年3月鹿児島の新兵営に移転した。
明治31年、編成が完了し、3月に軍旗が親授された。
明治37年2月、日露戦争が始まると動員が下令され、6月に鹿児島を発った。
連隊は第2軍の隷下に入り、遼東半島北部の蓋平を占領、その後も進撃を続け、8月に遼陽会戦、10月には沙河の会戦に参加し敵を撃滅した。
翌明治38年3月の奉天会戦では第4軍隷下となり、韓城堡を突破し、追撃戦では多くの捕虜を得た。
かくして、明治39年3月、鹿児島に凱旋した。
大正11年から2年間、連隊は満州に駐劄された。
昭和3年4月、済南事件では2個大隊を派遣し、9月に凱旋した。
満州事変では、昭和7年12月鹿児島を出発し、熱河、長城作戦に参加し、8年11月に帰還した。
昭和12年7月日中戦争勃発、連隊にも動員下令。8月1日、鹿児島を出発するが、連隊旗は再び鹿児島の地に戻る事はなかった。
その後は中国各地を転戦し、南京攻略戦、徐州会戦、南昌作戦、宣昌作戦、第1次長沙作戦など主要な作戦に参加した。
昭和16年12月、太平洋戦争開戦により、第2次長沙作戦に参加した。
昭和17年、南方での苦戦により南海派遣が決定し、12月末に上海を出港、ガダルカナル救援に向かうが、途中、ガダルカナル撤回が決定し、行き先がブーゲンビル島となった。
ブーゲンビルに到着するまでに輸送船3隻が沈められたが、18年1月、ブーゲンビル上陸を果たす。
ガダルカナルを攻略した米軍は18年11月に上陸を開始、歩兵第23連隊(都城)がこれを迎え撃ったが、失敗に終わる。
昭和19年3月、無傷の45連隊が主力となり、総攻撃を実施するも、20日あまりの戦闘で連隊は壊滅する。
残った者は、米軍と交代した豪軍との戦闘を続けるも、次第に島の南端に追われ、玉砕間近に終戦を迎える。
栄えある軍旗はこの地で奉焼され、歩兵第45連隊の歴史に幕を閉じた。(わが連隊:ノーベル書房から抜粋)

歩45 (11)
鹿児島県立短大の正門は、歩兵第45連隊の営門である。

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向かって右の門柱。

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左の門柱。

歩45 (13)
左の門柱付近には、立哨小屋の基礎が残っている。

歩45 (15)
当時の境界塀と、排水溝が残っている。

歩45 (9)
玉江小学校の校門も兵営の裏門と言われている。(玉江小学校社会科フィールドワーク参照)

歩45 (7)
右の門柱。

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左の門柱。営門に劣らない立派な門柱である。

歩45
玉江小学校内には将校集会所庭園のものだったと思われる池がある。
学校の許可を得て立ち入ってます。

歩45 (3)
池の近くには記念碑がある。裏には、昭和5年2月建設とあるが、何の記念碑かは不明。

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兵営の周りは当時の境界塀が残っている。

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これも当時の境界塀だろう。

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これは通用門であろうか?

歩45 (8)
さらに給水塔と言われる石塔がある。

歩45 (2)
さらに射撃場跡地には、何やら碑が!碑の側面には、昭和11年10月と書かれており、見つけた!と意気込むも、

歩45 (17)
建築記念碑としか書かれてなかった・・・

歩45 (16)
射撃場の跡地。雰囲気的には境界石がありそうだったが、斜面は擁壁されており見つからなかった。

歩兵第45連隊門柱の場所はこちら
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神崎 伸介

Author:神崎 伸介
酒とミル貝刺と、手羽先をこよなく愛し、日々全国の旧軍遺構を訪ね歩く自他共に認める変わり者です。
最近は暇があれば、YouTubeで河合奈保子の動画を観ています。奈保子ちゃん本当に可愛いです!

紹介する遺構の説明は正確を心がけてますが、間違いや情報があれば、是非とも教えてください。
また、ここで紹介する遺構は訪ねてから紹介するまでに、時間が経っている物も有り、必ずしも現状で無い場合がありますのでご注意ください。
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