歩兵第5連隊門柱

青森市筒井にある青森高校は歩兵第5連隊跡地に建てられている。
歩兵第5連隊は、その番号からも最古参連隊の1つであるが、その歴史は、明治4年11月弘前に2個小隊を配置、20番大隊と称され、明治5年には4個小隊編成となり、明治6年10月歩兵第20大隊と、明治8年6月には歩兵第4連隊第2大隊と改称、12月には青森に移駐、明治9年4月に歩兵第4連隊第2大隊は、歩兵第5連隊第1大隊と改称され、翌年5月には第2大隊も創設された。
翌明治11年5月に連隊本部が設置され、明治12年1月に軍旗が授与された。
(青森駐屯地防衛館の案内から抜粋)
この間、西南戦争にも1個大隊を派遣しているが、詳細は不明。
日清戦争では、明治27年10月に青森を出発、広島に赴き訓練を実施し、翌年1月威海衛攻撃部隊として第2軍の指揮下に入る。
戦争終結後は遼東半島警備の任に就き、8月には台湾に転進し台湾攻撃に参加した後、翌明治29年5月に凱旋した。
明治29年には第8師団が新設され、第8師団所属となる。
この頃はロシアとの関係が悪化し、戦火は避けられない状況となっていた。
その様な中、八甲田雪中行軍遭難事件が起こった。(八甲田雪中行軍遭難事件については後述)
日露戦争開戦により連隊は、明治37年9月青森を出発、大阪にて準備を行い、11月遼陽に向かった。
到着後は、黒溝台、揚子屯、奉天の会戦に参加し、明治39年2月凱旋した。
なお、日露戦争中には留守部隊が樺太を攻略している。
以後、明治40年北清警備、43年朝鮮警備、45年朝鮮出動、大正11年シベリア警備が行われた。
昭和6年、満州事変が勃発、連隊は昭和7年に出動し奉天付近の匪賊討伐の任に就き、その後は焼陽河の戦闘、綿州攻撃、熱河作戦に参加し、作戦終了後は熱河付近の治安維持にあたり、昭和9年3月に凱旋した。
昭和12年に日中戦争が始まると、北満警備のために出陣、昭和19年まで任に就く。
昭和19年9月、フィリピンに上陸しレイテ島の防備に就くも、優勢なる敵に壊滅的な打撃を受け、昭和20年5月、連隊長以下少数の生き残りは消息不明となった。
(ノーベル書房、「わが聯隊」から抜粋)
兵営付近には衛戍病院等があったが、遺構は連隊の門柱を残すのみである。

5連隊 (12)
門柱 現在は正門ではなく通用門として使われている様だ。また、昔の写真を見ると形状が違っているため、2代目の門柱なのかもしれない。

5連隊旧門柱
当時の絵葉書 レンガ造りの門柱である事が分かる。(写真提供、tiger氏)

5連隊 (7)
門柱のアップ。明らかに絵葉書の門柱とは形状が違うが、レンガ門柱の上部を切り詰めモルタル加工した可能性もある。

5連隊 (8)
兵営跡 何も遺構は残ってないだろう。

5連隊 (9)
射撃場跡地 長い直線道路はその名残だろうか?ただ、付近は住宅になっているのと、明確な境界が判らなかったので遺構は見つけられなかった。

歩兵第5連隊門柱の場所はこちら
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練兵場

地図中、桜川4丁目あたりから、佃1丁目の交差点を経由し、浪打1,2丁目まで真っ直ぐに伸びる細い道路(一通)がありますが、これは、かつて浪打に練兵場があって、そこへ行く道路の名残です。浪打は、昔は練兵町と呼ばれていました。

Re: 練兵場

> TIGERさん
その道路も注意して見て歩いたのですが、何も発見出来ませんでした。
連隊区司令部跡もいきましたが、こちらも何も発見出来ませんでした…
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神崎 伸介

Author:神崎 伸介
酒とミル貝刺と、手羽先をこよなく愛し、日々全国の旧軍遺構を訪ね歩く自他共に認める変わり者です。
最近は暇があれば、YouTubeで河合奈保子の動画を観ています。奈保子ちゃん本当に可愛いです!

紹介する遺構の説明は正確を心がけてますが、間違いや情報があれば、是非とも教えてください。
また、ここで紹介する遺構は訪ねてから紹介するまでに、時間が経っている物も有り、必ずしも現状で無い場合がありますのでご注意ください。
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