歩兵第22連隊

歩兵第22連隊は、明治11年に歩兵第12連隊第1大隊が松山分屯隊として松山城堀之内に兵営を置いたの始まりとし、明治17年に独立し19年に軍旗が親授された由緒正しき連隊である。
初陣は日清戦争で明治27年6月に動員下令され、元山と仁川から上陸する。
その後、幾度の激戦を戦い抜き、28年6月に凱旋する。
日露戦争では、第3軍の一員として旅順攻略戦に参加し、甚大なる被害を被りながらも、旅順を陥落させた。
映画「二百三高地」では、敵堡塁のカポニエールに落ちて機銃の掃射を受けていたのが当連隊の将兵であった。
この激戦の模様は、連隊旗手であった桜井忠温により「肉弾」として出版された。
大正8年6月、シベリア出兵。1年後の大正9年9月に凱旋する。
昭和7年2月、第一次上海事変に出動、4月に凱旋帰国。
昭和12年、第二次上海事変では、8月に出動、各地で戦闘に参加、南京警備の後、翌年4月に凱旋するも、9月に満州派遣が下令され、10月に出陣。以後、連隊が故郷松山に帰る事は無かった。
満州では国境警備に就き、昭和14年にはノモンハン事件にも参加する。
10月には第11師団から第24師団に編成替えとなる。この編制替えが今後の運命を大きく変える・・・
太平洋戦争勃発後も、満州の警備に就いていたが、昭和18年7月、第1大隊に南方派遣命令で、メレヨン島派遣、連隊本隊は、昭和19年7月に沖縄に上陸、沖縄本島中部の防衛を担当する。
昭和20年4月1日、沖縄本島に上陸した米軍と、まさに肉弾戦を繰り広げるも、奮戦虚しく玉砕。その栄えある歴史に幕を閉じた。
平時編成では同じ第11師団に所属した、他の歩兵連隊(丸亀12連隊、徳島43連隊、高知44連隊)が、郷土四国防衛を命じられ、終戦を迎えたのに比べると、運命の残酷さを感じる。
歴史ある歩兵第22連隊であるが、遺構はほとんど残っていない。
(わが聯隊:ノーベル書房から抜粋)

歩22
兵営があった松山城堀之内にある、歩兵第22連隊跡碑
歩22 (2)お堀の南西端に境界石らしきものを発見。

歩22 (3)歩22 (4)
確認すると、陸軍の境界石であった。
堀に転落の危険がありますので、充分に注意してください。また、他人の目が非常に気になります。

歩22 (5)南東端にもある。

歩22 (8)歩22 (9)
これも境界石だった。

歩22 (6)歩22 (7)
さらに少し北にもある。

歩22 (11)これは兵営の北側の物。

歩22 (12)
お堀の北西端の物

歩22 (10)
兵営北東の物と思われるが、これはMではなく陸軍と書かれている。

歩22 (13)
これは練兵場の境界石と思われる。

歩22 (20)さらに民家の一角には

歩22 (19)
陸軍省所轄地の境界石があるが、移設された物と推測する。

歩22 (15)松山護国神社の一角には、門柱と言われる石柱があるが、詳細不明。

歩22 (16)
立哨小屋も移設されているが、状態は悪い。

歩22 (18)
護国神社内に建てられた、歩兵第22連隊 忠魂碑

歩22 (17)歩兵第22連隊歌碑

松山護国神社の場所はこちら
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神崎 伸介

Author:神崎 伸介
酒とミル貝刺と、手羽先をこよなく愛し、日々全国の旧軍遺構を訪ね歩く自他共に認める変わり者です。

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