歩兵第41連隊

広島県福山市には、歩兵第41連隊の西門と将校集会所の門柱と、営庭にあった萬寶山の碑が残されている。

歩兵第41連隊は、明治29年に広島にて創設が開始され、31年3月、明治天皇から軍旗が親授された。
明治33年、北清事変のために出動し、初陣を飾り、翌年に凱旋した。
日露戦争では、遼陽、沙河、黒溝台、奉天等、主要な会戦に参加した。特に、沙河の会戦では、敵の要点であった、萬寶山(万宝山)を攻略、占領するも、反撃に遭い、大きな被害を受けた。
明治41年、連隊は兵営を福山に移し、以後、郷土連隊として親しまれる。
昭和6年、満州事変のため、連隊の一部が天津に出動、翌年帰還した。
昭和12年、日中戦争勃発、動員下令され中国に出動、以後、幾度の戦闘に参加し、南京攻略戦、徐州会戦、匪賊討伐などに従事する。
太平洋戦争緒戦では、マレー攻略戦に従事し、シンガポールを攻略する。
その後、ポートモレスビー攻略のために、ニューギニア上陸。ポートモレスビーを目指すも、過酷な地形や優勢なる敵を前に、壊滅状態となる。
その後、平壌で再編成、フィリピンのミンダナオ警備の任に就くも、昭和19年10月、米軍がレイテ島に上陸するとレイテに転進、しかし、戦況不利で昭和20年7月15日、連隊長以下、最期の突撃を敢行し、玉砕する。
(「わが連隊」ノーベル書房より抜粋)

歩兵第41連隊 (6)JA福山市の敷地には、西門の門柱が移設保存されている。

歩兵第41連隊 (4)
門柱のアップ 表札は後付けである。

歩兵第41連隊 (7)見てお判りの様に、両門柱共、ヒンジの部分が前を向いている。もちろん、移設した際、この様に間違って設置されたからである。

歩兵第41連隊 (3)
門柱と並んである、歩兵第41連隊跡の碑

歩兵第41連隊 (2)兵営跡地である、、緑町公園の一角には、将校集会所の門柱が残っている。オリジナルの位置にあるのか、移設したのかは不明。また、何の説明も無いので、果たして何人の市民が、この門柱の由来を知っているのだろう?

歩兵第41連隊
備後護国神社前には、萬寶山之碑がある。これは第17代連隊長、樋口大佐(昭和8年~10年)が在任中に建立された。

歩兵第41連隊 (5)さらに台座は、ばら公園内に残されている。(こちらのブログを参考にしました)

歩兵第41連隊西門の場所はこちら
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神崎 伸介

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