大津陸軍墓地再訪

大津陸軍墓地を再訪した。
高崎陸軍墓地を訪ねたレポートで、生兵の墓を見たのは大阪以来と書いたのだが、歩兵第15連隊に生兵がいたのに、歩兵第9連隊にいないはずがなく、見逃していたのではないか?と、気になっていた。
それ以外にも新たに気付いた事を紹介して行く。

大津陸軍墓地再訪 (2)
やはり生兵の墓は有った。

大津陸軍墓地再訪 (7)
こちらも、古い陸軍墓地では見かける名前だけのお墓。

大津陸軍墓地再訪 (5)お墓の並ぶ最後列には・・・

大津陸軍墓地再訪 (4)
初期の頃に使われた、カマボコ型の墓石がある。

大津陸軍墓地再訪 (6)これは、兵卒の墓に混じってある、士官候補生の墓。海軍では士官候補生(兵学校生徒)は兵曹長(陸軍では准尉と同等)の上との位置付けだったと思うのだが、陸軍は違うのか?

大津陸軍墓地再訪 (3)
これは、故陸軍歩兵二等卒となっている。故が付いたり、付かなかったり、これも時代によって違うのか?

大津陸軍墓地再訪
1等軍曹とかの名称や、1等卒から1等兵への名称の変更など、知らない事が多過ぎる。
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1等軍曹

「明治32年12月1日以降の日本陸軍では軍曹を「一等軍曹」・「二等軍曹」として、下士官の最下級の分類としていた。明治32年12月1日に陸軍武官官等表が改正され、それぞれ旧「一等軍曹」は「軍曹」、旧「二等軍曹」は「伍長」とされることとなった。」ということだそうです。

兵卒

「昭和6年11月10日に、一等卒・二等卒という名称を改め、一等兵・二等兵にそれぞれ改称する(昭和6年11月7日勅令第271号)。これにより、下士官とあわせて下士官兵と呼ばれるようになったが、それ以前は下士官も下士という名称であり、あわせて下士卒と称されていた。」ということですが、これを進めたのは宇垣陸軍大臣だそうです。ちなみに、「卒」というのは「足軽、同心」身分のことで、「武士」として一括りで考えがちですが、「士」と「卒」は異なるのです。明治期には「士族」の他「卒族」がありました。

幹部候補生

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B9%E9%83%A8%E5%80%99%E8%A3%9C%E7%94%9F_(%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%BB%8D)を参照して下さい。幹部候補生は一等兵(卒)や二等兵(卒)からスタートしていたようです。

失礼、士官候補生でした。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%BB%8D%E5%A3%AB%E5%AE%98%E5%AD%A6%E6%A0%A1_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)でした。やはり兵からのスタートですね。

ありがとうございます。

>>ヨッシーさん
御丁寧な説明ありがとうございます。
1等、2等軍曹ですが、歩兵連隊で言えば第48連隊以前の連隊にはいたのですね。
兵の墓石は、日露戦争以降、合葬碑が主流になっているので少ないのですね。
士官候補生は、士官学校とは異なった制度でしたか!

まだまだ、知らない事がたくさん有りますので、今後とも御教授ください。
ありがとうございました。
プロフィール

神崎 伸介

Author:神崎 伸介
酒とミル貝刺と、手羽先をこよなく愛し、日々全国の旧軍遺構を訪ね歩く橋本環奈が大好きな正統派変人です。

紹介する遺構の説明は正確を心がけてますが、間違いや情報があれば、是非とも教えてください。
また、ここで紹介する遺構は訪ねてから紹介するまでに、時間が経っている物も有り、必ずしも現状で無い場合がありますのでご注意ください。
本ブログに掲載されている写真の無断使用は禁止します。

Twitter始めました。@Kanreport0726

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