歩兵第34連隊

歩兵第34連隊は、明治29年12月豊橋にある歩兵第18連隊内に創設され、翌30年3月に静岡に移った。
明治37年2月に日露戦争が勃発すると、第2軍に属し5月遼東半島上陸する。8月下旬、遼陽会戦首山堡の戦いで戦死した橘大隊長は、軍神として崇められ歌も作られた。
その後は、沙河会戦、黒溝台会戦を経て、奉天会戦に参加、翌明治39年1月に凱旋帰国。
第1次世界大戦では山東半島に上陸し青島要塞攻囲戦に参加。
大正10年、満州に派遣され警備に従事し、12年に帰還。
昭和3年5月、三東省に出動、翌昭和4年5月まで青島に駐留。
昭和9年3月、満州に派遣され、匪賊討伐に従事し昭和11年5月に帰還。
昭和12年8月、日中戦争(支那事変)により、動員下令され、その後は中国を転戦し、終戦を迎える。
(わが連隊、ノーベル書房より抜粋)

歩兵第34連隊 (3)
駿府城内にある、歩兵第34連隊址の碑

歩兵第34連隊近傍には、軍歌「橘大佐」の歌碑

歩兵第34連隊 (2)
行啓の碑 明治31年7月に皇太子(後の大正天皇)が、行啓の際に当連隊に立ち寄った事を記念して、大正丙寅年(大正15年)に建立された物だと、解釈している。

練兵場跡地
練兵場跡地は住宅街になっていて当時の面影はないが、移設された境界石と、訓練講堂が残っている。

歩兵第34連隊 (4)
城東町公民館前に移設展示されている境界石。

歩兵第34連隊 (5)これは、練兵場の一角に残っている、毒ガス講堂と言われる建物。一部では毒ガス工場などと誤って伝えられているが、実際は防毒マスクの装着を訓練する建物だった様だ。

歩兵第34連隊 (6)近所の方に見せていただいた、城東町の郷土史(名前は失念)によると、訓練講堂は昭和11年築で、中は2つの部屋に仕切られており、片方の部屋で待機し、号令と共にもう一方の部屋に入ると同時に催涙ガスが注入され、迅速かつ正確な防毒マスクを付ける訓練を行ったそうである。

歩兵第34連隊 (7)窓の様子。オリジナル度は極めて高いと思われる。

毒ガス訓練講堂の場所はこちら
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橘大佐

橘大佐の歌碑があるのですね。司馬遼太郎氏の「坂の上の雲」ではサラッとしか橘大佐について触れられてないそうですね。橘大佐が軍国主義の象徴、軍神として祀られたことがその原因とか・・。(伝聞で書いています。間違っていたらご容赦。)

本人は指揮官として多勢に無勢の中、必死に任務を率先して果たした末のことですのに。軍神は後日、彼の知らない所で祀り上げられた訳で、感謝し記憶に留め置くことこそすれ、無視に近い記述については本当であれば残念でなりません。

伝聞と言えば、彼の戦死後、奥方の待つ自宅に満身創痍の姿で帰り着き、「多くの部下を死なせてしまった。」と奥方に伝えた後、彼の姿が消えてしまった由の話も聞いたことがあります。そういう方でしたら軍神として祀っても些かの不都合もないと思われるのですが・・・。

Re: 橘大佐

>>トッポ作さん

橘中佐だったような気が・・・

近々公開予定の、「静岡陸軍墓地」で橘中佐の個人墓を紹介します。
しかし、何故に個人墓があるのかの考察を書いていますので、ご推察くだされれば幸いです。
プロフィール

神崎 伸介

Author:神崎 伸介
酒とミル貝刺と、手羽先をこよなく愛し、日々全国の旧軍遺構を訪ね歩く自他共に認める変わり者です。

紹介する遺構の説明は正確を心がけてますが、間違いや情報があれば、是非とも教えてください。
また、ここで紹介する遺構は訪ねてから紹介するまでに、時間が経っている物も有り、必ずしも現状で無い場合がありますのでご注意ください。
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