失われた遺構 歩兵第33連隊兵舎
陸上自衛隊久居駐屯地はかつて、歩兵第51連隊の兵営であった。
歩兵第51連隊は明治38年に編成され、7月に樺太に派遣された。
明治41年に新兵営である久居に移転した。
大正14年の軍縮により、連隊は廃止となり、名古屋の守山から歩兵第33連隊が移転してきた。
その後、連隊は昭和4年2月から昭和6年4月までの約2年、満州駐箚となる。
昭和9年、再び満州駐箚となり、チチハルへ転進し、北満第1次、第2次討伐作戦を行い、昭和11年7月に凱旋した。
しかし、1年後の昭和12年7月、日中戦争が勃発すると連隊は9月に出発し、大陸に上陸し南京を目指した。
12月10日、南京総攻撃が開始され、連隊は紫金山を攻略し、かくて南京は落城した。
13年1月、河北省に転進し、5月に徐州会戦、8月からは武漢攻略戦、11月に漢口入城、昭和14年5月の喪東会戦を経て、8月に凱旋した。
昭和16年9月に動員が下令され、11月に名古屋港を出港。パラオで訓練を行い、ルソン島へ向かう。
太平洋戦争開戦後の12月12日、レガスビーに上陸しマニラを目指す。
昭和17年1月にマニラを陥落させ、連隊主力はマニラ南方の警備を、第2大隊はバターン半島攻略戦に参加。
2月に連隊はミンドロ島作戦に参加、北部ミンドロを制圧し、3月には第2次バターン攻略戦に参加し、米軍を降伏させた。
5月にはコレヒドール要塞が陥落し、以後はバターン半島、マニラ湾口要塞、コレヒドール要塞を警備する。
昭和18年はルソン島の掃討作戦に専念した。
昭和19年9月、連隊はレイテ島に向かい、米軍の上陸に備える。
10月17日、米軍による攻撃が始まった。20日には上陸開始、物量にまさる敵に死闘を繰り返すも、次第に戦力は失われ、連隊この地で玉砕した。
現在、兵営跡は陸上自衛隊第33普通科連隊の駐屯地となり、郷土の誉れを受け継いでいる。
この兵舎も、歩兵第51連隊の新兵舎として建てられたものと推測するが、一般的に使われている歩兵第33連隊兵舎として紹介する。
いかに紹介する遺構は残念ながら取り壊されている。(平成24年6月撮影)

木造兵舎。詳細は不明だが、三重県のHPには、「大正初期建造の2階建て木造建築で、歩兵・砲兵・通信班兵舎として使用されていた。」と書かれている。

反対から見る。

馬具庫だろうか?厩舎の隣の建物。

厩舎
歩兵第51連隊は明治38年に編成され、7月に樺太に派遣された。
明治41年に新兵営である久居に移転した。
大正14年の軍縮により、連隊は廃止となり、名古屋の守山から歩兵第33連隊が移転してきた。
その後、連隊は昭和4年2月から昭和6年4月までの約2年、満州駐箚となる。
昭和9年、再び満州駐箚となり、チチハルへ転進し、北満第1次、第2次討伐作戦を行い、昭和11年7月に凱旋した。
しかし、1年後の昭和12年7月、日中戦争が勃発すると連隊は9月に出発し、大陸に上陸し南京を目指した。
12月10日、南京総攻撃が開始され、連隊は紫金山を攻略し、かくて南京は落城した。
13年1月、河北省に転進し、5月に徐州会戦、8月からは武漢攻略戦、11月に漢口入城、昭和14年5月の喪東会戦を経て、8月に凱旋した。
昭和16年9月に動員が下令され、11月に名古屋港を出港。パラオで訓練を行い、ルソン島へ向かう。
太平洋戦争開戦後の12月12日、レガスビーに上陸しマニラを目指す。
昭和17年1月にマニラを陥落させ、連隊主力はマニラ南方の警備を、第2大隊はバターン半島攻略戦に参加。
2月に連隊はミンドロ島作戦に参加、北部ミンドロを制圧し、3月には第2次バターン攻略戦に参加し、米軍を降伏させた。
5月にはコレヒドール要塞が陥落し、以後はバターン半島、マニラ湾口要塞、コレヒドール要塞を警備する。
昭和18年はルソン島の掃討作戦に専念した。
昭和19年9月、連隊はレイテ島に向かい、米軍の上陸に備える。
10月17日、米軍による攻撃が始まった。20日には上陸開始、物量にまさる敵に死闘を繰り返すも、次第に戦力は失われ、連隊この地で玉砕した。
現在、兵営跡は陸上自衛隊第33普通科連隊の駐屯地となり、郷土の誉れを受け継いでいる。
この兵舎も、歩兵第51連隊の新兵舎として建てられたものと推測するが、一般的に使われている歩兵第33連隊兵舎として紹介する。
いかに紹介する遺構は残念ながら取り壊されている。(平成24年6月撮影)

木造兵舎。詳細は不明だが、三重県のHPには、「大正初期建造の2階建て木造建築で、歩兵・砲兵・通信班兵舎として使用されていた。」と書かれている。

反対から見る。

馬具庫だろうか?厩舎の隣の建物。

厩舎
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