大久野島北部砲台その1 24cmカノン左翼砲座付近
北部砲台は、芸予要塞の中で一番早い明治30年に着工、明治33年に竣工した。
北部砲台には斯加(シュナイダー・カネー)式24cmカノン砲と斯加式12cmカノン砲が4門ずつ備砲されていた。(案内板から抜粋)
ただ、大砲の性能が飛躍的に進化したため、大正13年には芸予要塞は廃止となり、僅か24年ほどでその役目を終えた。
その後、民間に払い下げられた来島(小島)砲台とは違い、昭和4年に陸軍造兵廠忠海製造所(後に、東京第二陸軍造兵廠忠海兵器製造所と改称)が置かれ、毒ガスの製造を行った。その際に、北部砲台も毒ガスの原料の保存施設となり現在もその跡が残っている。

北部砲台24cmカノン砲左翼砲座の後方を中央部から見る。

この場所(南西端)に発電所があり、北部電燈所に電力を供給していたようである。

北西端の角には掩蔽部がある。

掩蔽部のアップ

奥行きはない。

こちらは2連であり、南側に開口部がある。

内部の様子

見難いが内部で繋がっている。

北西端から中央後部を見る。

ここを登れば建物の基礎があり、その先は中部砲台に繋がっている。
北部砲台には斯加(シュナイダー・カネー)式24cmカノン砲と斯加式12cmカノン砲が4門ずつ備砲されていた。(案内板から抜粋)
ただ、大砲の性能が飛躍的に進化したため、大正13年には芸予要塞は廃止となり、僅か24年ほどでその役目を終えた。
その後、民間に払い下げられた来島(小島)砲台とは違い、昭和4年に陸軍造兵廠忠海製造所(後に、東京第二陸軍造兵廠忠海兵器製造所と改称)が置かれ、毒ガスの製造を行った。その際に、北部砲台も毒ガスの原料の保存施設となり現在もその跡が残っている。

北部砲台24cmカノン砲左翼砲座の後方を中央部から見る。

この場所(南西端)に発電所があり、北部電燈所に電力を供給していたようである。

北西端の角には掩蔽部がある。

掩蔽部のアップ

奥行きはない。

こちらは2連であり、南側に開口部がある。

内部の様子

見難いが内部で繋がっている。

北西端から中央後部を見る。

ここを登れば建物の基礎があり、その先は中部砲台に繋がっている。
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