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関崎砲台

関崎灯台の近くには関崎砲台が残っている。

関崎砲台 (1)
関崎海星館から関崎に向かう途中に見える景色。
海峡に見える島が高島、対岸に見えるのが佐田岬である。共に豊予要塞の砲台が造られている。

関崎砲台 (11)
関崎砲台へのアクセスポイント
ここからアクセスすれば簡単だとのアドバイスを頂いていたのに、関崎海星館から砲台に向かってしまい大変な事に・・・

関崎砲台 (2)
関崎海星館から灯台に向かって歩き、ずっと下って、少し上れば最初(左翼)の砲座が見える。

関崎砲台 (6)
左翼砲座

関崎砲台 (4)
内部の様子

関崎砲台 (5)
天井には灯りを吊るしていたと思われるフックがある。

関崎砲台 (3)
砲座の左(向かって右)には排水口がある。

関崎砲台 (7)
さらに進むと右翼砲座がある。(紹介したアクセスポイントからだと最初に見える。)

関崎砲台 (10)
内部の様子

関崎砲台 (8)
かなり傷んでおりこのままでは近い将来、崩壊するであろう。

関崎砲台 (9)
私が知る豊予要塞の砲台は石を組み合わせて擁壁をなしている。

佐田第1砲台 (2)
これは佐田岬砲台の擁壁

さて、この関崎砲台であるが、大きな疑問がある。
砲座にある説明板には大正6年に造られ、45式15cmカノン砲が備え付けられたとあるが、それは豊予要塞が設置される前であり、明らかに間違っていると思われる。
「日本築城史」(浄法寺 朝美著)には、「高島第1 および関崎砲台は共に大正10年7月起工、同13年1月竣工した。スカ式12センチ速射カノン砲 2門の砲台で、 火砲は平時掩砲所に格納された。下関要塞竜司山堡塁砲台の火砲を移したものである。」と記載されているが、その後の昭和に入って造られた砲台が露天砲座であるのに、何故、大正期に造られた、しかも関崎砲台だけが穹窖式(洞窟)砲台なのだろうか?大正10年は航空機が兵器と使われた第1次世界大戦が終わって3年後であるが、航空機の性能は劣っており日本本土が空襲にさらされる可能性はゼロであっただろう。
それなのに何故、穹窖式(洞窟)砲台にする必要があったのだろうか?

学研から出版された、「日本の要塞」忘れられた帝国の城塞 (歴史群像シリーズ)や、別府大学史学研究会戦史研究室が活動報告として、「豊予要塞 」−忘れられた巨大要塞−と題した論文には、関崎砲台の名前はない。

個人的な考えではあるが、この砲台は戦争末期に造られたものだと思うが、何故、大正期に建造されたと言われるようになったかの推察は別の機会に!

関崎砲台へのアクセスポイントはこちら
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プロフィール

kan

Author:kan
酒とトリ貝刺と、南蛮漬けをこよなく愛し、全国の旧軍遺構を訪ね歩く、自他共に認める正統派の変人です。
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紹介する遺構の説明は正確を心がけてますが、間違いや情報があれば、是非とも教えてください。
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