歩兵第25連隊
歩兵第25連隊は、明治29年5月に第7師団増設に伴い、独立歩兵第1大隊として、札幌連隊区司令部内に創設され、その後、月寒に移転した。明治32年、歩兵第25連隊第1大隊と改称し、逐次増設、明治32年に軍旗を親授され、明治35年に編成を完了した。日露戦争では、第3軍隷下として旅順攻略戦に参加、203高地を攻略した。
余談ではあるが、映画「二百三高地」では、敵塁を占領し、連隊旗を振るも、連隊旗を敵兵に奪われ破られてしまうが、再奪取しボロボロの連隊旗を天高く振るシーンが印象深い。
その後は奉天戦に参加し、明治39年3月凱旋帰国した。
大正6年から2年間は満州に、9年から1年間沿海州に派遣された。
その後は、連隊の一部が派遣され戦闘に参加するも、連隊としては派遣されていない。
昭和11年に札幌で行われた、最後の陸軍特別大演習に参加する。
昭和13年に連隊は満州に移駐し、徐州会戦、張鼓峰事件、ノモンハン事件に参加し昭和15年10月帰国、その後に編制替えを行い、樺太に移駐し、以後、樺太警備に当たる。
昭和20年8月9日、ソ連軍が不可侵条約を一方的に破棄して侵攻を開始、終戦後も攻撃を行うために、これを迎撃し、23日に停戦が調停されるまで、戦闘を続けた。
この歩兵第25連隊の遺構は、ほとんど残っていないが、わずかな遺構を紹介する。

営門の松 明治29年、独立歩兵大隊が置かれ後に歩兵第25連隊に改編された。この兵営正門(営門)前に植えられた2株の松の1つが今に残っている。この門から多くの兵士が出征、凱旋するのを見守った松である。
(豊平区HPより転記)

艱を快となす(む?)の石碑 連隊長 山田 虎夫と書かれている。山田連隊長は、明治44年12月から大正5年8月までの長きにわたり連隊長を務めた。(これ以降は、つきさっぷ郷土資料館にて展示されている。)

読み難いが、即位式大典記念・・・大正5年3月・・・と彫られている。

これは、昭和11年に行われた陸軍特別大演習に昭和天皇が来訪された事を記念し建てられた、記念碑の碑文である。石碑は無くなったが、この部分だけ残ったのであろう。

こちらも同じく、陸軍特別大演習に昭和天皇が来られた事を記念した碑の碑文であろう。
歩兵第25連隊営門の松の場所はこちら
余談ではあるが、映画「二百三高地」では、敵塁を占領し、連隊旗を振るも、連隊旗を敵兵に奪われ破られてしまうが、再奪取しボロボロの連隊旗を天高く振るシーンが印象深い。
その後は奉天戦に参加し、明治39年3月凱旋帰国した。
大正6年から2年間は満州に、9年から1年間沿海州に派遣された。
その後は、連隊の一部が派遣され戦闘に参加するも、連隊としては派遣されていない。
昭和11年に札幌で行われた、最後の陸軍特別大演習に参加する。
昭和13年に連隊は満州に移駐し、徐州会戦、張鼓峰事件、ノモンハン事件に参加し昭和15年10月帰国、その後に編制替えを行い、樺太に移駐し、以後、樺太警備に当たる。
昭和20年8月9日、ソ連軍が不可侵条約を一方的に破棄して侵攻を開始、終戦後も攻撃を行うために、これを迎撃し、23日に停戦が調停されるまで、戦闘を続けた。
この歩兵第25連隊の遺構は、ほとんど残っていないが、わずかな遺構を紹介する。

営門の松 明治29年、独立歩兵大隊が置かれ後に歩兵第25連隊に改編された。この兵営正門(営門)前に植えられた2株の松の1つが今に残っている。この門から多くの兵士が出征、凱旋するのを見守った松である。
(豊平区HPより転記)

艱を快となす(む?)の石碑 連隊長 山田 虎夫と書かれている。山田連隊長は、明治44年12月から大正5年8月までの長きにわたり連隊長を務めた。(これ以降は、つきさっぷ郷土資料館にて展示されている。)

読み難いが、即位式大典記念・・・大正5年3月・・・と彫られている。

これは、昭和11年に行われた陸軍特別大演習に昭和天皇が来訪された事を記念し建てられた、記念碑の碑文である。石碑は無くなったが、この部分だけ残ったのであろう。

こちらも同じく、陸軍特別大演習に昭和天皇が来られた事を記念した碑の碑文であろう。
歩兵第25連隊営門の松の場所はこちら
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