青森(幸畑)陸軍墓地 その3
陸軍墓地入口から見て右側(北西側)には、連隊創設からの墓石が残っている。
ただ、隣接する雪中行軍遭難者墓地に比べると、墓地の状態は良くないが、雪中行軍遭難者の墓と違い遺骨が納められているので、改修のために掘り起こせないと言っていた。

この図では、右上部分になる。図の下側から、反時計回りで紹介する。
また、今回は公共交通機関(バス)で訪れたために、帰りのバスの時間が迫っており、詳しく見る事が出来なかった・・・

都路号塚と驥心之塚
共に軍馬の名前だと推測するも、驥(き)には、「一日に千里を走ることのできる良馬」との意味があるために、軍馬を総じている可能性もある。

入口向かって右奥の個人墓 説明板には日清日露合同葬墓となっているが・・・

墓石のアップ かなり状態が悪いが、この下には遺骨が入っている。

陸軍軍人合葬之墓 明治19年8月建立

陸軍々人合葬之墓 こちらは明治33年3月建立

やはり古参連隊だけあって、生兵の墓があった。

墓碑に、歩兵第5連隊第2大隊第2中隊と書かれている墓石

明治10年没と、全国の陸軍墓地にある個人墓の中でも、最古参に入るだろう。

こちらも、同じ墓碑であるが

左側面には、岩手県徴兵と書かれている。

こちらの墓石は、

日露戦争中の明治38年2月に亡くなっている。
全部は確認できなかったが、日清日露戦争中に亡くなった墓石はほとんど無かった。
ただ、隣接する雪中行軍遭難者墓地に比べると、墓地の状態は良くないが、雪中行軍遭難者の墓と違い遺骨が納められているので、改修のために掘り起こせないと言っていた。

この図では、右上部分になる。図の下側から、反時計回りで紹介する。
また、今回は公共交通機関(バス)で訪れたために、帰りのバスの時間が迫っており、詳しく見る事が出来なかった・・・

都路号塚と驥心之塚
共に軍馬の名前だと推測するも、驥(き)には、「一日に千里を走ることのできる良馬」との意味があるために、軍馬を総じている可能性もある。

入口向かって右奥の個人墓 説明板には日清日露合同葬墓となっているが・・・

墓石のアップ かなり状態が悪いが、この下には遺骨が入っている。

陸軍軍人合葬之墓 明治19年8月建立

陸軍々人合葬之墓 こちらは明治33年3月建立

やはり古参連隊だけあって、生兵の墓があった。

墓碑に、歩兵第5連隊第2大隊第2中隊と書かれている墓石

明治10年没と、全国の陸軍墓地にある個人墓の中でも、最古参に入るだろう。

こちらも、同じ墓碑であるが

左側面には、岩手県徴兵と書かれている。

こちらの墓石は、

日露戦争中の明治38年2月に亡くなっている。
全部は確認できなかったが、日清日露戦争中に亡くなった墓石はほとんど無かった。
スポンサーサイト