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小倉北方営所に残る陸軍遺構その1 歩兵連隊将校集会所

現在、陸上自衛隊小倉駐屯地がある場所は、陸軍の北方営所であった。
多くの衛戍地でも同じなのだが、昭和12年に日中戦争が始まると、多くの部隊が出征し、多くの特設連隊が作られた。これは昭和20年の終戦まで続き、いつからいつまで、どの部隊が使っていたか判らない事も多い。
さて、この北方営所も同じであり、大正15年の軍縮で師団が移転し、ここに兵営を置いていた部隊も、移転や廃止になったために、不明な点が多い。
小倉には明治8年、歩兵第14連隊の兵営が置かれていたが、明治31年に第12師団が小倉に新設され、北方に営所を作った。当初は、歩兵第47連隊、砲兵第12連隊、騎兵第12連隊、工兵第12大隊、輜重兵第12大隊、陸軍衛戍病院の屯所であったが、師団移転により、病院以外のすべての部隊は移転、廃止となった。
師団移転後、関東大震災で壊滅的な被害を受けた陸軍造兵廠東京工廠の移転が決まり、歩兵第14連隊の衛戍地が用地となり、当連隊が北方に移った。また、下関から野戦重砲兵第5連隊・第6連隊が移駐し、昭和10年、12師団全部隊がソ満の国境警備に出るまで駐屯した。
その後は、留守部隊が業務を行い、連隊の補充や、特設連隊の創設を行っていたと思われるが、駐留部隊の詳細は不明。
終戦時は、野戦重砲兵留守隊から派生した、高射砲の教育隊が主となって北方に駐屯していたようである。
今回紹介する遺構も、歩兵第47連隊将校集会所として建てられ、その後は歩兵第14連隊将校集会所として使われた様だが、その後の事は不明であるが、今回は判明している歩兵連隊の将校集会所として紹介する。

この建物は、北方に営所が置かれた明治31年頃の建築で、現在は陸上自衛隊小倉駐屯地史料館として使われている。

小倉将校集会所
将校集会所正面入り口

小倉将校集会所 (3)
こちらは裏側

小倉将校集会所 (2)
裏側出入り口のアップ

小倉将校集会所 (4)
外観上の大きな改装はなさそうだが、残念ながら状態はあまり良くない。

小倉歩兵連隊集会所の場所はこちら
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kan

Author:kan
酒とナマコ酢と、ミル貝刺をこよなく愛し、全国の旧軍遺構を訪ね歩く、自他共に認める正統派の変人です。
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