大阪陸軍墓地

JR大阪環状線玉造駅近くに有る大阪陸軍墓地は真田山陸軍墓地とも言われ、明治4年に作られた日本最古の陸軍墓地である。

毎月第4日曜日の午後1時半より、NPO法人、旧真田山陸軍墓地とその保存を考える会(以下、保存会)による案内があり、これに参加した。

この墓地は作られた当時の姿を残しているとは言われるが、当初の敷地の一部を昭和3年に真田山小学校へ移譲したために墓石の順番などは変わっている。
この墓地の周りは民家が建ち並んでいるので、確認出来た石柱は3つ。
入口左右にある境界石

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入口に向かって右の境界石

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裏面には、境界査定標と書かれている。

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入口左の境界石

変換 ~ 大阪陸軍墓地
墓地の東側、三光神社からの入口には、陸軍省所轄地の石柱が残っている。

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見学会が始まり、まず最初に案内されたのが西南の役で亡くなった抜刀隊の墓。
横須賀浦郷にある官修墓地にもそうだが、西南の役ではコレラが発生して、多くの命が失われている。

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抜刀隊とは、警視庁から志願選抜され、薩摩軍に対抗するために臨時編成された特別部隊だ。
そのため、新撰旅団第一大隊第三中隊 四等巡査心得 と書かれた墓もあった。
当時の陸軍(政府軍)は、徴兵が始まって歴史も浅く、兵の士気、練度は決して高くなく、反乱軍(薩摩軍)の足元にも及ばなかった。 そこで旧幕府側出身者を集めて、抜刀隊を編成した。
旧幕府側出身者は、西郷により戊辰戦争で敗れ、賊軍とされたので、その恨みからか積極的、勇敢に闘ったそうである。
当時ではとても遠い地であった南九州まで出征するのは、余程西郷さんに恨みを抱いていたからだろう。(すべて、説明のまま)

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生兵(せいへい)って御存知だろうか?
保存会の会報によると、
生兵は明治7年から20年にあった制度で、徴兵されて6ヶ月間の訓練期間中は生兵と呼ばれ、その後に兵士として勤務可能と認められれば二等卒の階級が与えられた。

真田山墓地には生兵の墓が113基ある。
13年間で113人だから毎年8~9人が、半年間の訓練期間だから毎月1人以上が死んだ計算になる。
113人の内訳は、病死71人、事故死2人、負傷が悪化1人、不明39人であり、訓練生である生兵は戦闘には参加していないので戦死者、戦病死者はいない。
事故死のうち1名は淀川での水泳訓練で溺死した事が判っている。

明治初期の頃は、洋服を着た事も靴を履いた事も無い人が大半で、そんな人達が何時間もの行進訓練や、それまで明るくなれば起きて、暗くなれば寝ていたのに分刻みでの行動は大変ストレスで、多くの脱走兵がいたらしい。
病死者の中には逃亡して捕まり、重営倉に入れられ脚気で死んだ人もいるようだ。
判る範囲ではコレラ、脚気が多いようである。
保存会の話では、当時は一日6合の白米が与えられており、あの当時、白米が腹一杯に食べられるのが、唯一の楽しみと言ってよく、それが脚気を多発させる原因になったのは皮肉だ。      

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これが日本一古い陸軍墓地の墓石である。初期の墓石の形は、かまぼこ型と言われる先が丸い形であるが、途中で先が尖った形に変えられている。

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埋葬規則が変わったのが明治7年であるので、そこで墓石の形も変わったと推測されるが、それ以降に建てられた墓石でもかまぼこ型は見られるのは在庫がある間は在庫処分で使ったのではないかとのこと。
陸軍墓地の初期の頃は土葬で、座らせて葬ったので一人に一坪の土地が与えられていたそうだが、日清戦争の様に外地に出征するようになると、遺体を大阪まで持ち帰り土葬も出来なくなり、現地で荼毘して遺骨のみを埋葬するようになり現在の形になった。

ところで、陸軍墓地に埋葬されている軍人と言えば勇敢に戦って戦死した勇士のイメージがないだろうか?
しかし、今回の見学ではそうでないことが判明した。

戦死や戦病死、訓練中の事故死はもちろんだが、外出時に酔って巡査を殴ったり、軍隊が嫌で逃亡したが捕まり重営倉に入れられ脚気で死亡とか、逃亡中に首吊り自殺した等と刻まれている墓石もあった。
何もそんな不名誉な事を書かなくてもと思うが、当時の事情が有った。

当時(明治初期)の規則では、死亡後2日で親類等が引き取りに来なければ、陸軍墓地に埋葬されることになっていた。
しかし、当時の通信事情、交通事情を考えると、よほど近所に住んでいない限り、死亡後に通知を発送したとしても親類に通知が届くのは数日後、そこから大阪に来るまでに数日掛かったと思われる。
だから明治初期には事実上、軍隊にいる間に死ねば陸軍墓地に埋葬される外なかったのだ。
今も故郷を想い大阪の地で多くの御霊が眠っている。

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ところが日露戦争が始まると、戦死者の数が多く、個人の墓を作る暇も場所も費用もなくなり、合同の慰霊碑にされた。
見て判るとおり、奥から将校、准士官、下士官、兵の順で大きさに違いがある。

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さらに満州事変になると階級に関係なく、将兵合葬碑となっている。

大阪陸軍墓地には変わった墓石がある。

まずは捕虜の墓。
墓地の一角に、一部文字の削られた墓がある。

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日清戦争と第一次世界大戦の捕虜の墓だが、削られた墓石には清国俘虜 ○ ○○や獨逸俘虜 軍曹○○○などと彫られていた。これを見た第四師団長が、故人の名誉のために俘虜を削除してやれと命じたために、俘虜の文字が削られたそうだ。
保存会が毎年行われる慰霊祭のお知らせを、ドイツ、中国の領事館に送っているが、ドイツ領事館は毎年の慰霊祭に参加しているけど、中国は体制も変わっているので関係ないと参加してないと言っていた。

それ以外には、日清戦争に従軍した民間人の墓もあり、墓石には軍従夫や酒保請負人、看病人などの肩書がある。
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日清戦争当時、日本陸軍は主計や衛生、輜重が整備されていなかったため多くの民間人を軍属として雇った。
その反省から鉄道連隊などが作られ日露戦争では活躍した。


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この墓地も空襲の被害があり、破壊された墓石を一か所に集めて供養している。

変換 ~ 大阪陸軍墓地 (31)
仮忠霊堂、昭和18年建造
これは資源不足から木造建築である。仮なのは忠霊堂を建てるまでの仮納骨堂であったが、忠霊堂が建てられること無く現在に至っている。
この仮忠霊堂は傷みが激しく早急な補修が必要である。

ここ大阪陸軍墓地はアクセスも良く、保存会が精力的に活動している国内でも珍しい陸軍墓地。
関西在住の方はもちろんのこと、近くに訪れた方にも是非訪れていただきたい。

最後に 特定非営利活動法人 旧真田山陸軍墓地とその保存を考える会のHPはこちら

真田山陸軍墓地の場所はこちら
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プロフィール

神崎 伸介

Author:神崎 伸介
酒とナマコ酢と、セロリをこよなく愛し、日々全国の旧軍遺構を訪ね歩く異様に静電気を恐れる正統派変人です。

紹介する遺構の説明は正確を心がけてますが、間違いや情報があれば、是非とも教えてください。
また、ここで紹介する遺構は訪ねてから紹介するまでに、時間が経っている物も有り、必ずしも現状で無い場合がありますのでご注意ください。
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