習志野に残る境界石

陸軍習志野学校の東方には境界石が多数残っている。
これらは場所や石質、文字体から騎兵第16連隊もしくは騎兵第2旅団の練兵場か訓練場の物だと推測する。
盡忠報國さんから、鉄道連隊演習線の物と教えていただきました。

習志野境界石 (3)
1本目と2本目写真奥を1本目、手前を2本目とする。

習志野境界石 (1)
1本目、「陸軍」と書かれている。移設だと推測するのだが・・・

習志野境界石 (2)
2本目、こちらも「陸軍」の様だ。

習志野境界石 (4)
3本目、畑の中にある。「陸軍用地」である。

習志野境界石 (5)
4本目、住宅分譲地にある。

習志野境界石 (7)
「陸軍」の様である。住宅が建つと見れなくなるだろう。

習志野境界石 (8)
現在も境界石として使われている。


習志野境界石 (6)
5本目、これは、「陸軍用地」である。

習志野境界石 (10)
6本目

習志野境界石 (9)
石質から陸軍の境界石だと推測するも、文字は確認できなかった。

習志野境界石 (11)
7本目 、この辺だった様な気が・・・
まぁ、見逃すことはないと思うが・・・
それにしても、こうして見ると境界石の地中部分の長さに驚く!

習志野境界石 (12)
「陸軍」の文字が確認できる。

習志野境界石 (14)
8本目

習志野境界石 (13)
こちらも「陸軍」である。

習志野境界石 (15)
9本目、詳細な場所の記録を忘れる・・・
文字は住宅の方にあるようで確認できない。

習志野境界石 (17)
10本目

習志野境界石 (16)
う~ん・・・ワンちゃんのシッコで濡れ濡れ状態・・・

習志野境界石 (19)
11本目

習志野境界石 (18)
こちらも陸軍の物かは確認できず。

習志野境界石 (20)
12本目、これも確認できない。

習志野境界石 (21)
13本目 、更に、これも確認できないが、石質や形状から間違いないと思う。

習志野境界石 (23)
14本目

習志野境界石 (22)
これは「陸軍用地」であり、字の大きさや字質が違う。あくまでも推測なのだが、初期の物ではなかろうか?
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陸軍習志野学校

騎兵第16連隊跡地、現在の泉町には陸軍習志野学校学校があった。
習志野学校は昭和8年8月、騎兵第16連隊が騎兵第13連隊跡地に移転し、残された施設を利用した化学戦(毒ガス戦)の研究教育機関であった。盡忠報國さんから、情報をいただきました。

この習志野学校や大久野島などを検索すると、国際法で禁じられていた毒ガスを製造、保有していたことは国際法違反みたいな記述をインターネットで見かけるが、大正14年に作成されたジュネーヴ議定書は、化学兵器、生物兵器の使用を禁じる物であって、生産、保有は禁じられていなく、また、日本は批准していないため、使用しても法的には問題ない。逆に何を根拠に国際法違反と言っているかを問いたい。

習志野学校 (1)
兵舎の一部と言われる建物

習志野学校 (2)
基礎部にはレンガが使われている。

習志野学校 (3)
道路側から見る。グーグルストリートビューには、ぼかしが掛けられていたので、もしかしたら何かとあるのかも?

習志野学校 (4)
反対側から見る。

習志野学校 (6)
正門があったとされる付近には、レンガ製の土塁止(で正しいでしょうか?)が残っている。

習志野学校 (5)
習志野学校の敷地の一部が、
「習志野の森」となっており、多くの遺構が残っているようだが、立ち入り禁止となっている。

習志野学校 (7)
建物入り口の階段

習志野学校 (8)
3月中旬でもこれだけ草が茂っているので、夏場は見分けがつかないだろう。

習志野学校 (9)
公園にある東屋は弾薬庫を利用している。

習志野学校 (10)
半地下式の弾薬庫だった様である。

習志野学校 (11)
裏門の門柱。ヒンジが残っている。最近まで立哨小屋もあったようだが、無くなっていた・・・

習志野学校 (12)
詳細は不明だが、当時の鉄条網用の支柱か?

陸軍習志野学校正門跡地はこちら

騎兵第13連隊

東邦大学習志野キャンパスは騎兵第13連隊跡地に建てられており、いくつかの遺構が残っている。
騎兵第13連隊は騎兵第14連隊と共に習志野で編成され、騎兵第1旅団の隷下として、明治34年12月軍旗を親受する。
日露戦争では、5月遼東半島塩大澳に上陸第2軍に属して曲家店、沈旦堡等の戦闘においてコザック騎兵と交戦、奉天戦においては大勝の基となり、更に長駆奉天北方に進出して敵軍主力の側背に迫り露軍を敗退させる要因となった。
満洲事変勃発するや昭和7年6月出動。泥濘悪路を克服してその機動力を発揮し馬占山討伐を始め東辺道討伐、乾元鎮の攻略等全満各地の作戦に活躍。翌昭和8年2月海拉爾に進駐対ソ戦に備える。
日中戦争においては、昭和13年8月より北支に出動。新黄河北方地域で活躍し、以後、各種の作戦警備に就く。
昭和14年10月、騎兵機械化施策の一環として自動車編制に改編され、昭和17年10月に戦車第3師団の創設に伴い、機動歩兵第3聯隊となり、軍旗を奉還 40余年の栄ある歴史に幕を閉じた。

騎兵第13連隊 (1)
キャンパス内に残る稲荷神社。奥に武道場が見える。

騎兵第13連隊 (3)
正面から見る。

騎兵第13連隊 (2)
手水台には、大正7年度除隊記念と彫られている。

騎兵第13連隊 (4)
お稲荷さん(と言っていいのか?)の台座にも、大正5年度除隊の文字が見える。

騎兵第13連隊 (5)
一か所に集められている柵にも、大正9年度除隊記念の文字が見える。

騎兵第13連隊 (6)
騎兵第13連隊跡の碑
近くにある説明版には、昭和7年建立と書かれているが疑問がある。
ウィキペディアを参照すると、
昭和7年、 満州事変出動時には戦時編制を整備。連隊は留守隊として1中隊を内地に残し出動。
昭和9年、 満州常駐部隊となり留守隊は廃止。
とある。昭和7年の時点で連隊はまだ、この地を衛戍地としているのに、跡地の碑を建てるとは思えないのだが。

騎兵第13連隊 (8)
軍人勅諭御下賜50周年記念碑、昭和7年4月24日建立
碑は五角柱で、各面に「忠節」「礼儀」「武勇」「信義」「質素」の5つの教えが彫られている。

騎兵第13連隊 (7)
台座には、「勅諭拝受50周年を迎え感激に堪えず。茲(ここ)に碑を建て、5箇條の聖訓を刻して永久に記念す」と彫られている。

騎兵第13連隊 (10)
武道場 現在も柔道場、空手道場として使われているようだ。

騎兵第13連隊 (9)
反対側から見る。

騎兵第13連隊武道場の場所はこちら

騎兵第1旅団

習志野市大久保4丁目にある八幡公園は騎兵第1旅団司令部跡地であり、門柱や石碑が残っている。

騎兵第1旅団は、明治32年に発足し、明治34年12月 騎兵第13連隊・騎兵第14連隊に軍旗が親授され、明治35年編成完了。 その後は、日露戦争に出動する。
昭和7年、満州事変に出動し、昭和9年に満州常駐部隊となる。
昭和13年、日中戦争で出動となるが、すでに騎兵は時代遅れとなり機械化されていき、昭和17年に旅団解隊となる。

騎兵1旅団門柱 (5)
公園入口に残されている門柱。建てられている幅などから、移設されたのでは?

騎兵1旅団門柱 (6)
明治期によく見られる形状である。

騎兵1旅団門柱 (7)
ヒンジが残っている。

騎兵1旅団門柱 (8)
公園内から見る。

騎兵1旅団門柱 (2)
公園内にある、習志野騎兵旅団発祥の地の碑 昭和51年建立

騎兵1旅団門柱 (3)
こちらにはいくつもの碑が並んでいる。詳細不明だが戦後の物だろう。

騎兵1旅団門柱 (4)
ただ、一番左にある、馬頭観世音の碑は、昭和6年3月10日 騎砲兵大隊一同により建てられた。

騎兵1旅団門柱 (1)
八幡神社の裏にある、誉田八幡神社には栗林少将書の「紀元二千六百年記念参道敷石竣工之碑」がある。

八幡公園の場所はこちら

東部軍管区教育隊門柱

新京成線習志野駅近くには、東部軍管区教育隊門柱が残っている。
東部軍管区教育隊とは、昭和18年8月に作られた現役下士官候補者教育機関の名称である。当初、東部軍教育隊であったが、昭和20年2月、東部軍が東部軍管区司令部と改組せられたのに伴い東部軍管区教育隊となる。(Wikipediaから抜粋)

東部軍管区教育隊門柱 (1)
門柱は、駅前の住宅地に残っている。

東部軍管区教育隊門柱 (2)
門柱のアップ。

東部軍管区教育隊門柱 (3)
反対側から見る。ヒンジが残っている。

東部軍管区教育隊門柱の場所はこちら
プロフィール

神崎 伸介

Author:神崎 伸介
酒とナマコ酢と、セロリをこよなく愛し、日々全国の旧軍遺構を訪ね歩く異様に静電気を恐れる正統派変人です。

紹介する遺構の説明は正確を心がけてますが、間違いや情報があれば、是非とも教えてください。
また、ここで紹介する遺構は訪ねてから紹介するまでに、時間が経っている物も有り、必ずしも現状で無い場合がありますのでご注意ください。
本ブログに掲載されている写真の無断使用は禁止します。

Twitter始めました。@Kanreport0726

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