騎兵第4連隊

以前、堺市に残る騎兵第4連隊の遺構を紹介したが、元々は現在の真田山公園に兵営があった。き
騎兵第4連隊は、明治22年に2個中隊からなる大隊として、この地に兵営を置いた。
戦歴としては日清戦争が最初で、戦争終結後に連隊へと昇格し、明治29年11月に軍旗を拝受した。
日露戦争では、金洲、南山等の戦闘に続いて遼陽会戦、沙河会戦を経て、奉天会戦を戦った。
その後、しばらくはこの地を衛戍地としたが、狭隘のために昭和7年に堺に移転した。
連隊移転後は、大阪市に払い下げられたので、現在残る遺構は騎兵第4連隊の物で間違いないだろう。
今回も、「大日本者神國也」さんを参考にした。

真田山公園 騎4 (6)
兵営跡の一角に記念碑が残っている。

騎兵営城址
下段には「騎兵営址」と書かれており、裏面には、昭和8年11月 騎兵将卒建立と書かれている。

真田山公園 騎4 (8)
中段のレリーフ これは、この碑が建てられた当時の物と思われる。

真田山公園 騎4 (10)
上段の「忠魂」の碑 これは裏面に昭和28年4月に増築と書かれている。

真田山公園 騎4 (2)
記念碑のすぐ横には、「陸軍省所轄地」の境界石がある。

真田山公園 騎4 (5)
境界石のアップ 字体、境界石の大きさなどから、ここに兵営を置いた当時の物と思われる。

真田山公園 騎4 (4)
境界塀と思われる。

真田山公園 騎4 (3)
もう一つの境界石 夏場だからか、それとも木が成長したからか、見難くなっている。

真田山公園 騎4
枝を掻き分けて、文字を確認。

真田山公園 騎4 (7)
兵営時代の物と思われる石垣と擁壁
真田山公園 騎4 (9)
ここでも石垣の状態が確認できる。

騎兵第4連隊記念碑の場所はこちら
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堺市に残る陸軍遺構 謎の物件

さて、堺市には今回紹介した遺構以外にも謎の遺構がある。
今回、紹介する遺構の詳細を御存知の方は是非とも御教授頂きたい。

堺市の遺構 (7)近畿中央胸部疾患センター内に残る門柱。この先は職員の住宅になっていて立ち入り禁止。病院敷地と住宅を分ける門柱としては立派過ぎるので輜重連隊関連かとも思うが・・・

堺市の遺構 (8)金岡公園南端にある倉庫。こちらもかなり古いと思われる。

堺市の遺構 (9)反対から見る。奥の倉庫は後付けだろう。コンクリの状態などから、旧軍遺構では?と思っている。

これ以降は全て警察学校内に残る物堺市の遺構 (13)車庫であるが、遠目なのではっきりとは判らない。旧軍遺構に思えなくもない。

堺市の遺構 (14)車庫の背後にある土盛り。
上に見える感じから、地下弾薬庫か避難壕ではないだろうか?

堺市の遺構 (15)この塀は、旧軍遺構で間違いないと確信している。

堺市の遺構 (16)上記、塀のそばにあるタンク。

輜重兵第4連隊

騎兵第4連隊の南、現在の近畿中央胸部疾患センターが建つ場所は、輜重兵第4連隊の衛戍地であった。
輜重兵第4大隊(当時)は、大阪城の南、法円坂町から昭和9年にここへ移転し、昭和11年に連隊となった。
今回もこちらのブログに記載されている、この地図を参考にした。

堺市の遺構 (17)
近畿中央胸部疾患センター前に残る門柱。詳細は不明だが、移設されたと推測する。

堺市の遺構 (10)隣接する金岡公園南西端にも門柱が残っているが、こちらは塀も残っている。

堺市の遺構 (6)
近畿中央胸部疾患センター内には、国旗掲揚塔と忠魂碑が残っている。

堺市の遺構 (4)忠魂碑 柵で囲まれていて見難い。

堺市の遺構 (5)
この国旗掲揚塔は、輜重兵第4大隊出身者が、この地への転営記念で作った様である。

堺市の遺構 (11)金岡公園の北西には、兵営の塀が残っている。

堺市の遺構 (12)
さらに塀の北側には、大阪陸軍病院金岡分院の忠魂碑がある。昭和16年9月建立

騎兵第4連隊

大阪府堺市のJR堺市駅南東約500mに有る、近畿管区警察学校は騎兵第4連隊の跡地である。
明治22年に大阪に来た騎兵第4連隊(当時は騎兵第4大隊)は当初、陸軍墓地の南、現在の真田山公園の場所にあったが、昭和7年、この地に移転した。
今回、堺に残る陸軍遺構を紹介するにあたってこちらのブログを参考にした。

堺市の遺構警察学校職員官舎から見える遺構。兵舎だろうか?

堺市の遺構 (2)上と同じ建物

堺市の遺構 (3)これは東側にある建物。大きいので司令部か?
今回、撮影するにあたり警察学校正門にいた職員に撮影許可を求めたところ、敷地外から構内を撮るのは問題ないとの事だった。
騎兵第4連隊の遺構はこちら

大正陸軍飛行場

昭和12年、初の民間防空機関「阪神航空協会」が設立され、翌年に民間パイロットや整備士養成のための「阪神飛行学校」が開校、滑走路、宿舎、工場格納庫などが建設され、翌年から大正飛行場と呼ばれた。
太平洋戦争開戦直前の昭和15年、軍に接収され、以後、近畿における陸軍航空隊の中心的存在となった。(別冊歴史読本 旧軍史跡を参照)

変換 ~ 大正飛行場遺構 (8)近鉄高安駅から東に1.5km、住宅地に残る畑の中に掩体壕がある。
(ここは私有地ですので、無断立ち入りはしないでください)

変換 ~ 大正飛行場遺構 (10)ちょうど土地所有者の方がいたので、立ち入り許可をいただく。
「この付近に3つの掩体壕があったが残っているのはこれだけ」「実際に飛行機を格納していない」とおっしゃっていた。

変換 ~ 大正飛行場遺構 (2)掩体壕を反対から見る。かなり寸詰まりに思えるが、実は・・・

変換 ~ 大正飛行場遺構 (4)
掩体壕の前半分が破壊されていて、残っているのは後ろ半分だけである。
この掩体壕であるが、天井部の断面を見ると、最初に基礎になる側面を作り、その後、前と後ろを分けて建造したのが判る。

変換 ~ 大正飛行場遺構 (9)壊した破片を使って土を盛り、畑としている。

変換 ~ 大正飛行場遺構 (6)これが掩体壕の前面である。

垣内掩体壕実は付近にもう一つの掩体壕の一部が住宅の基礎となっている。

変換 ~ 大正飛行場遺構 (7)大正中学の東にある公園には、航空廠通用門の一部が移設保管されている。
それにしても、他の保存方法はなかったのだろうか?

変換 ~ 大正飛行場遺構 (3)
通用門の文字が今もはっきりと読める。

変換 ~ 大正飛行場遺構 (5)説明板によると、門柱はこの場所に有った様だ。

変換 ~ 大正飛行場遺構地下鉄谷町線八尾南駅付近にも、格納庫の基礎と言われている遺構が残っている。

さて、この大正飛行場の遺構であるが、それぞれの遺構の場所が遠く、車ならば問題ないが、公共交通機関で訪ねるには交通の便が悪い。
幸いにして、それぞれの遺構の最寄り駅、近鉄高安駅 地下鉄八尾南駅にレンタサイクルがあるので、これを利用したほうが時間の節約になるかもしれない。
プロフィール

神崎 伸介

Author:神崎 伸介
酒とナマコ酢と、セロリをこよなく愛し、日々全国の旧軍遺構を訪ね歩く異様に静電気を恐れる正統派変人です。

紹介する遺構の説明は正確を心がけてますが、間違いや情報があれば、是非とも教えてください。
また、ここで紹介する遺構は訪ねてから紹介するまでに、時間が経っている物も有り、必ずしも現状で無い場合がありますのでご注意ください。
本ブログに掲載されている写真の無断使用は禁止します。

Twitter始めました。@Kanreport0726

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