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新発田陸軍墓地

新発田駐屯地のすぐ近くにある、西公園は陸軍墓地であった。
この陸軍墓地も他所にあった墓地から遺骨を納骨堂に移したものである。
今回の記事を書くにあたり桜花の絆さんを参考にさせていただいた。

新発田陸軍墓地 (1)
納骨堂。昭和17年ごろから建設が始まったようである。

新発田陸軍墓地 (2)
納骨堂を正面から見る。

新発田陸軍墓地 (7)
納骨堂の前にある狛犬

新発田陸軍墓地 (9)
こちらは向かって左の狛犬。台座には明治37、8年戦役や、征露紀念の文字が見える。

新発田陸軍墓地 (8)
越佐招魂 明治31年建立

新発田陸軍墓地 (5)
日露戦没忠霊塔

新発田陸軍墓地 (4)
合同忠霊塔 満州事変以降の合葬碑のようである。

新発田陸軍墓地 (3)
シベリア出兵戦没者残骨灰埋葬地 

新発田陸軍墓地 (6)
ガダルカナル島戦記念碑 昭和37年建立

新発田陸軍墓地 (10)
ビルマ戦慰霊平和塔 パゴダを模している。

新発田陸軍墓地 (11)
軍旗奉焼の碑 平成22年建立

新発田陸軍墓地 (12)
公園の北東端付近、社務所?の裏には、馬魂碑?がある。

新発田陸軍墓地 (13)
当時の物と思われる境界塀
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新発田憲兵分隊庁舎

新発田市市民ギャラリーは、新発田憲兵分隊庁舎を使っている。
新発田憲兵分隊庁舎は昭和10年9月に火災を起こし、その後に新設の上申書が出されていることから、昭和11年の建築と思われる。
戦後は医師会館として使用された後、市内の高齢者・障がい者等が気軽に自己作品を発表する場として使われている。
新発田憲兵分隊庁舎は移設されたようるが、別の場所からこの場所に移されたのではなく、敷地内で移動させたようである。

新発田憲兵 (2)
憲兵分隊庁舎を正面から見る。

新発田憲兵 (1)
こちらは正面向かって右斜め前方から

新発田憲兵 (3)
こちらは左斜め前方から見る。

新発田憲兵 (5)
側方から見る。

新発田憲兵 (9)
入り口部分のアップ

新発田憲兵 (8)
窓のアップ

新発田憲兵 (4)
敷地の南側境界塀を内側から見る。

新発田憲兵 (6)
西側境界塀を外から見る。

新発田憲兵 (7)
庁舎の背面を敷地外から見る。

歩兵第16連隊兵営跡

歩兵第16連隊兵営のほとんどは現在、新発田駐屯地となっており、その周辺を巡ってみる。
陸軍の古い連隊の多くは城郭に兵営を築いていたが、現在も城郭内に兵営(駐屯地)があるのは新発田駐屯地だけらしい。

新発田兵営 (1)
駐屯地の角にはレンガの門柱が残っている。レンガ造りであること、また場所的に西門と思われる。

新発田兵営 (2)
反対側から見る。

新発田兵営 (3)
右側の門柱

新発田兵営 (4)
左側の門柱

新発田兵営 (5)
木造の建物。これは???

新発田兵営 (6)
もう一つ木造の建物、こちらも???

新発田兵営 (7)
さらにもう一つ。こちらは窓の形状から、当時の建物だろう。

新発田兵営 (8)
フェンスの上から撮る。場所的に炊事場の一部だと思われる。

新発田兵営 (9)
東門から、兵舎が見える。

新発田兵営 (10)
現座兵舎としては唯一残っている、第8中隊の兵舎であり、貴重な明治時代の建物である。

歩兵第16連隊白壁兵舎

新潟県新発田市には歩兵第16連隊の兵営が置かれていた。
新発田兵営の歴史は古く、明治4年10月、新潟に営所が置かれ、12月に8番大隊が編成され、その一部が新発田に配置された。
明治7年、新発田城内に兵営が新設され、東京駐屯の第9大隊が移駐、また第8大隊の1個中隊が編入され、歩兵第16連隊の起源となる。
明治17年6月、歩兵第16連隊が編成され、8月に軍旗が親授された。
明治27年、日清戦争勃発し連隊は10月新発田を出発、宇品を経由し、翌年1月に大連に到着。極寒の中、威海衛を攻略し、以後、遼東各地を転戦、10月に台湾上陸、討伐警備にあたり、29年に凱旋する。
明治37年に勃発した日露戦争でも多くの会戦に参加、特に遼陽会戦での白兵戦は、戦史に残る快挙であった。
大正8年にはシベリア出兵、昭和6年には満州事変に出動する。
昭和12年4月、満州駐箚。7月に日中戦争勃発、連隊は国境を突破、数々の戦闘に参加し、12月に満州に帰還する。
昭和14年、ノモンハン事件に参加、悪戦苦闘を重ね、昭和15年11月、新発田に帰還した。
翌昭和16年10月、臨時編成が下令され多くの召集兵が編入された。秋深まる頃、新発田を出発し、習志野に集結。12月には太平洋戦争勃発、夏軍装で震えながら宇品へ。翌17年1月、宇品を出港し一路南下し、3月、ジャワ島に敵前上陸を敢行した。
その後は西ジャワでの戦闘警備にあたり、9月ジャワを出港しラバウルに到着。10月にはガダルカナルに上陸する。
しかし、敵機の猛爆、ジャングルの苦難の行軍、飛行場争奪のための壮絶なる夜襲、陣地死守。
そして、食料は尽き、疫病に悩まされ、多くが草むす屍となるも、18年2月、撤退に成功する。
ガダルカナル撤退後、ニューブリテン島で補充部隊と合流、5月にマニラで部隊を再編成し、10月にシンガポール上陸。
昭和19年元旦、出動命令を受けビルマに向かい、ベンガル湾沿岸の警備にあたる。
その後は、援蒋ルートの断絶や、中部ビルマでの作戦に参加するも、制空権も無く物量に勝る英印軍に苦難の戦闘を続けるも、昭和20年7月仏印に転進、終戦を迎える。

現在、兵営跡地は陸上自衛隊新発田駐屯地になっており、明治7年に建てられた通称、白壁兵舎を移設復元した史料館が見学できる。

白壁兵舎 (1)
陸上自衛隊新発田駐屯地 白壁兵舎史料館 

白壁兵舎 (11)
白壁兵舎の外観 ほとんどが復元であり厳密に言えば旧軍遺構ではない。

白壁兵舎 (12)
ゴールデンウィークに入っても、まだ山頂には雪がある。

白壁兵舎 (13)
入り口部分のアップ

白壁兵舎 (14)
庇部分には陸軍を示す波線1本の鬼瓦があるが、これは複製品だろう。

白壁兵舎 (5)
これは史料館に展示されている、本部庁舎に使われていた鬼瓦

白壁兵舎 (10)
これらは全て復元だろう。

白壁兵舎 (2)
史料館内には階段が残っている。

白壁兵舎 (3)
手摺部分は当時の物だと言っていた。

白壁兵舎 (9)
これも当時の物。

白壁兵舎 (4)
展示されている、当時の木材

白壁兵舎 (8)
梁の部分は当時の木材が多く使われているようだ。

白壁兵舎 (6)
歩兵第16連隊、連隊旗。もちろん複製である。

白壁兵舎 (7)
展示されている、新発田陸軍病院で使われていた衝立

白壁兵舎 (15)
史料館前にある、新発田兵舎之跡の碑

村松陸軍墓地

新潟県五泉市愛宕にある村松公園には忠霊塔があり、現在は村松陸軍墓地とも言われている。
もともと、村松公園は、明治39年10月に日露戦役記念として造られたが、昭和18年に忠霊塔が作られ、別の場所にあった陸軍墓地から遺骨がここに納められた。

村松陸軍墓地 (10)
公園入口にある鳥居 歩兵第30連隊将校団が奉納した。 

村松陸軍墓地 (2)
鳥居をくぐると右手に忠霊塔(納骨堂)が見える。

村松陸軍墓地 (3)
忠霊塔 昭和18年築

村松陸軍墓地 (4)
忠霊塔の前には棟飾りが置かれている。これは忠霊塔が作られた当時の物であるが、改修に伴い新しいものに替えられ、ここに展示されている。

村松陸軍墓地 (5)
忠霊塔を斜め前から見る。

村松陸軍墓地 (6)
園内にある灯篭

村松陸軍墓地 (7)
依代之譜さんによると、傘の部分は、軍艦のシリンダカバーではないだろうか?と推測されている。

村松陸軍墓地 (8)
忠魂碑 明治39年3月建立 村松公園開園時からあった物であろう。

村松陸軍墓地 (9)
戦没陸軍少年通信兵の慰霊碑

村松陸軍墓地 (1)
付近に残る、大正天皇御野立所の碑
プロフィール

kan

Author:kan
酒とナマコ酢と、ミル貝刺をこよなく愛し、全国の旧軍遺構を訪ね歩く、自他共に認める正統派の変人です。
変人ですが、「変態!」と言われると烈火の如く怒ります。
腰はガラスの腰と言われ、定期的に壊れます!

紹介する遺構の説明は正確を心がけてますが、間違いや情報があれば、是非とも教えてください。
基本、酒を飲んでブログを書いてます。誤字や文章がおかしい時は、かなり酔っていると思ってください。
また、ここで紹介する遺構は訪ねてから紹介するまでに、時間が経っている物や、すでに消失している物も有り、必ずしも現状で無い場合がありますのでご注意ください。
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