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川南に残る給水塔

「藍より蒼き 大空に大空に たちまち開く 百千の 真白き薔薇の 花模様」や、「世紀の華よ 落下傘落下傘 その純白に 赤き血を 捧げて悔いぬ 奇襲隊」と歌われた落下傘部隊。
その落下傘部隊(空挺部隊)は、洋の東西を問わず、陸軍の花形であり、精強部隊であることに異言を唱える人はいないだろう。
ただ、精強無比を誇る空挺部隊は太平洋戦争緒戦では活躍したが、その後は活躍の機会が無かった。

宮崎県川南町には給水塔が残っている。
陸軍は、昭和15年末、浜松陸軍飛行学校に落下傘練習部を創設、後に挺進練習部となる。
昭和16年、挺進練習部は満州に移転するも、地理・気候的条件が悪く、新田原飛行場へ移転が決定する。
新田原へ移転後、教導挺進第1連隊を編成し、川南の高鍋軍馬補充部を落下傘降下場に転換する。
その後、第1挺進集団(挺進第1連隊、第2連隊)が、さらに第2挺進団(挺進第3連隊、第4連隊)が編成され、川南は落下傘部隊のふるさととなる。
この給水塔は挺進第3連隊の物と言われ、挺進部隊唯一の遺構の様である。
唐瀬原 陸軍落下傘部隊史 軍都川南の記録さんを参考にしました。)

川南 (6)
川南駅から歩くこと約40分、それが見えてくる。

川南 (1)
給水塔の全景

川南 (2)
高さ28mの給水塔は、近くで見ると圧巻される。

川南 (5)
北西側から見る。これを見逃すことはないだろう。

川南 (3)
弾痕と思われる傷跡が残る。

川南 (7)
川南護国神社にある、空挺落下傘部隊発祥之地の碑

川南町給水塔の場所はこちら
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富高海軍航空基地

宮崎県日向市には富高海軍航空基地があった。
新人物往来社から発行された「旧軍史跡」の佐伯海軍航空隊の記事中には、「昭和5年に調印されたロンドン条約に対処するため、昭和6年に航空兵力の増強を計画し、日岡村(現大分市)や富高町を抑えて佐伯に飛行場建設が決定し、昭和9年に佐伯航空隊が誕生した。」と書かれているが、ネットで調べると昭和4年には飛行場建設が開始されていた様である。
ただ、訓練用の飛行場であり配備されていた機体は無かったが、昭和19年には築城航空隊の分遣隊として訓練部隊となった様で、戦争末期は特攻の中継基地として使われた。
現在は門柱と滑走路の一部が残されている。また、付近には電探基地用の発電機壕が残っている様だが、場所が特定できず訪ねられなかった。

富高海軍航空隊 (3)
富高中学校の正門は、富高飛行場の門柱を使っている。

富高海軍航空隊 (2)
右の門柱

富高海軍航空隊 (1)
左の門柱

富高海軍航空隊 (4)
レンガ塀は長手積みである。
さて、この門柱の場所は、塀があることから元々の場所に残っていると思われるが、門柱と滑走路の間には大きな川が流れている。なぜ、基地内を川で分裂するような配置にしたのかは疑問が残る。

富高海軍航空隊 (7)
川を渡った協和病院の敷地内には、「神風特別攻撃隊出撃之地」の碑がある。

富高海軍航空隊 (8)
「神風特別攻撃隊出撃之地」の碑の後方にある「爆弾ノ痕」

富高海軍航空隊 (6)
「神風特別攻撃隊出撃之地」の碑付近に残されている、滑走路のコンクリート。

富高海軍航空隊 (5)
門柱から滑走路跡に行く途中、日知屋小学校の敷地にあった転圧ローラー。当時の物かと思ったが・・・さすがに・・・

富高海軍航空基地門柱の場所はこちら

陸軍新田原飛行場

宮崎県児湯郡新富町にある航空自衛隊新田原(にゅうたばる)基地の南西には、掩体壕が残っている。
新田原基地は、昭和15年に陸軍飛行場として完成した様だが、新田原基地HPにも、
昭和15年 陸軍新田原飛行場ができる。
  16年 陸軍挺身練習部及び挺身飛行隊が設置される。
  17年~ 南方方面作戦の基地となる。
  20年 終戦  としか書かれておらず、詳しい事は不明であった。
しかし、こちらのブログ、唐瀬原 ―陸軍落下傘部隊史―軍都川南の記録さんには、基地建設から戦時中の事、戦後の基地解体、再度、航空自衛隊の基地へ生まれ変わる模様を紹介している。
こちらのブログを引用させていただくと、

航空自衛隊新田原基地の前身となったのは、日本陸軍の新田原飛行場です。
この飛行場は熊谷陸軍飛行学校分教場として昭和15年に建設されました。元々は鐘紡系列の昭和産業が養蚕用桑畑を持っていた場所です。
飛行場建設計画が明らかになったのは昭和12年頃で、翌年4月22日には宮崎県から新田村・富田村の双方に軍用地買収が通達されました。
建設工事に着工したのは、買収が完了した昭和14年2月1日のことでした。
完成した新田原飛行場には、部隊の配属が始まります。
昭和16年2月6日、まず西部101部隊(第九航空教育隊)が黒竜江省チチハルから転入。
同年秋には満洲国白城子飛行学校から陸軍落下傘部隊と挺進飛行隊(降下兵の空輸部隊)も移動してきます。
半年間も雪に閉ざされる白城子では訓練もままならず、冬でも気候温暖でパラシュート降下場を確保できる新田原飛行場が新たな訓練地として選ばれたのです。
間近に迫る南方作戦の切り札として、空挺部隊の練成は一刻を争いました。
挺進練習部(空挺部隊)は北側の川南村にある軍馬補充部高鍋支部塩付分厩をパラシュート降下場へ転換。
新田原を離陸した挺進飛行隊は川南上空で落下傘兵を降下させ、それを何度も繰り返す猛訓練が始まりました。
昭和16年末から年明けにかけて、挺進練習部では2個空挺連隊の編成を完結。
これらの聯隊は、後の第1挺進團(挺進第1聯隊および第2聯隊)となります。
昭和17年のパレンバン降下作戦後も、空挺部隊は規模を拡充し続けます。
第1挺進團に加えて第2挺進團(挺進第3聯隊と第4聯隊)が新設されたことで、新田原飛行場は収容能力の限界を迎えました。
空挺部隊の移転先として、塩付パラシュート降下場の周囲には唐瀬原(からせばる)飛行場と訓練施設群が続々と建設されます。
川南村に唐瀬原飛行場が完成したことで、空挺部隊は新田原飛行場から転出。
以降、この川南空挺基地が「空の神兵」の拠点となりました。
5番目の空挺聯隊は茨城県の西筑波飛行場へ移転し、グライダー部隊の滑空歩兵2コ聯隊へと再編されます。
同時に挺進工兵隊、挺進戦車隊、挺進通信隊、挺進機関砲隊、挺進整備隊といった空挺支援部隊群も新設され、陸軍落下傘部隊は師団規模の「第一挺進集団」へと成長しました。
18年に空挺部隊が唐瀬原へ移った後も、新田原は挺進飛行隊の基地として機能し続けます。
唐瀬原飛行場の空挺隊員は日豊線の列車とトラックを乗り継いで新田原飛行場まで移動し、そこから挺進飛行隊の輸送機で離陸。
唐瀬原の塩付降下場へパラシュート降下で帰還するという訓練を繰返していました。
昭和19年11月5日、新田原飛行場を飛び立った挺進飛行隊は第二挺進団「高千穂空挺隊」と共にフィリピンへ展開。
そして、レイテやバゴロドにおける一連の空挺作戦で大きな損害を蒙りました。
フィリピンで戦う第一挺進集團や第二挺進團に続き、残る第一挺進團も本土決戦への準備に取り掛かります。
翌年春、挺進第一聯隊は九十九里浜防衛のため横芝へ展開。5月8日には挺進第一聯隊から抽出された「義烈空挺隊」が唐瀬原飛行場から熊本の健軍飛行場へ移動します。
義烈空挺隊は2週間後の24日に沖縄へ特攻、途中帰還した4機を除く8機112名全員が戦死しました。
残る挺進第二聯隊と挺進戦車隊は米軍九州上陸に備えて宮崎に温存されます。
昭和19年、第9航空教育隊が島根県へ転出。入れ替わるように、陸軍航空通信学校新田原教育隊の700名が転入して来ます。
通信学校は新田原飛行場の北側(新田原基地から県道44号を北上した高台)に駐屯。卒業生は各戦線へ配属され、その多くが戦死しました。
新田原も、戦争末期には特攻隊の基地となっていきます。
昭和20年4月1日に誠第39飛行隊の6名、3日に誠第32飛行隊の6名、6日に誠第36飛行隊の10名、誠第7飛行隊の9名、誠第8飛行隊の7名の特攻隊員38名が出撃。
また、新田原から他の飛行場を経由して出撃した富嶽隊、第32飛行隊、誠第41飛行隊の特攻隊員は33名。
これらの特攻隊員71名全員が戦死しています。
その後、激しい爆撃を受けた新田原飛行場は機能を停止。
やがて敗戦となり、兵士達はそれぞれの故郷へ復員していきました。
昭和20年末に宮崎へ展開した進駐軍は、新田原飛行場も徹底的に破壊します。
再利用ができないよう滑走路は爆破し、周辺は農地として開放されました。


新田原 (4)

掩体壕は基地の近くにあり、上空にはT-4練習機がフライパスしている。
これで、テンションだだ上がり。思わず、翼の凱歌を口ずさむ!

新田原
一番西側に残る掩体壕。典型的な陸軍仕様の掩体壕である。

新田原 (2)
かなり埋まっている様だが、戦闘機などの小型乃至中型機用だろう。

新田原 (3)
上部の様子。掩体壕自体の状態はとても良い。

新田原 (5)
振り返ると2つ目の掩体壕が見える。

新田原 (6)
2つ目の掩体壕に向かう途中、T-4が基地上空で上昇を行い、さらにテンションが上がる。思わず、燃ゆる大空を口ずさむ!

新田原 (8)
2つ目の掩体壕。

新田原 (7)
3つ目の掩体壕に向かう途中には、ファントムの編隊がフライパス。思わず、機上の歌を口ずさむ!

新田原 (11)
3つ目の掩体壕。

新田原 (12)
こちらも状態が良い。

新田原 (9)
さらに、ファントムの編隊が頭上でブレイク。思わず、加藤隼戦闘隊を熱唱する!
新田原 (15)
4つ目の掩体壕。ここに残る掩体壕はすべて原型をとどめている。

新田原 (14)
掩体壕の形状が良く判る。

新田原 (13)
後方から見る。

新田原 (10)
そして、最後にファントムが帰ってきた。

陸軍新田原飛行場掩体壕(一番西)の場所はこちら

赤江海軍航空基地 その3

滑走路の南西約1kmの地点にも、4基の掩体壕が残っている。
空港からひと山(丘)を越えると、それらはある。

赤江掩体壕その4
4基有る中の一番北の掩体壕

赤江掩体壕その4 (2)
ここにある4基は大型機用であり、入口は凸形ではなく、陸軍式の様である。

赤江掩体壕その4 (3)
内部の様子。(許可を得て立ち入ってます。

赤江掩体壕その4 (4)
側面を見る。

赤江掩体壕その5
2つ目の掩体壕

赤江掩体壕その5 (2)
形は皆、同じである。

赤江掩体壕その6
3つ目の掩体壕

赤江掩体壕その6 (2)
2つ目の掩体壕のすぐ隣にあり、迷う事はないだろう。

赤江掩体壕その6 (3)
側面を見る。大きすぎて全体が入らなかった。

赤江掩体壕その6 (4)
後ろから見る。この掩体壕が一番見やすい。

赤江掩体壕その6 (5)
2つ目と3つ目の掩体壕の位置関係が判るであろう。


赤江掩体壕その7
4つ目の掩体壕。これは前部は取り壊され、後部しか残っていない。

赤江掩体壕その7 (3)
正面向かって左の破壊面

赤江掩体壕その7 (4)
こちらは右側

赤江掩体壕その7 (5)
破壊面のアップ。非常に細い鉄筋が入っている。

赤江掩体壕その7 (6)
所有者の方の御好意で、掩体壕に登らせてもらう。

赤江掩体壕その7 (2)
掩体壕の上から飛行場方向を見る。途中に丘があるのが判るだろう。この付近の掩体壕に格納する際は、迂回してきたのだろう。

赤江海軍航空基地 その2

弾薬庫と言われる遺構の近くには掩体壕が残っている。
当日は雨で、とても暗かった。ただ当日(1月6日)は暖かく、雨に濡れても寒くなかったのが救いだった。
今回も見た順に紹介する。

 赤江掩体壕1つ目
西側の掩体壕。この時が雨のピークだった。

 赤江掩体壕1つ目 (4)
真横から見る。海軍特有の2段式の作りである。

 赤江掩体壕1つ目 (3)
若干であるが、崩壊が始まっている。

 赤江掩体壕1つ目 (2)
正面から見る。

 赤江掩体壕1つ目 (5)
戦闘機または、艦上攻撃機用の掩体壕だと推測する。

赤江掩体壕2つ目
北側の掩体壕がすぐ近くに見える。

赤江掩体壕2つ目 (3)
こちらも西側の掩体壕と同じ形である。

赤江掩体壕2つ目 (4)
西側よりは状態が良い。

赤江掩体壕2つ目 (2)
横から見ると小山の様である。

赤江掩体壕その3
南側の掩体壕

赤江掩体壕その3 (2)
付近には何かの基礎だと思われる、コンクリートが残っている。

赤江掩体壕その3 (3)
正面入口は破壊されており、凸形ではなく、陸軍式の様になっている。

赤江掩体壕その3 (4)
3基とも同じ造りだと思われる。

滑走路北側に残る掩体壕(西側)の場所はこちら
プロフィール

kan

Author:kan
酒とトリ貝刺と、南蛮漬けをこよなく愛し、全国の旧軍遺構を訪ね歩く、自他共に認める正統派の変人です。
変人ですが、「変態!」と言われると烈火の如く怒ります。

紹介する遺構の説明は正確を心がけてますが、間違いや情報があれば、是非とも教えてください。
基本、酒を飲んでブログを書いてます。文章がおかしい時は、かなり酔っていると思ってください。
また、ここで紹介する遺構は訪ねてから紹介するまでに、時間が経っている物や、すでに消失している物も有り、必ずしも現状で無い場合がありますのでご注意ください。
本ブログに掲載されている写真の無断使用は禁止します。
著作権は本ブログにあります。使用する場合は御一報ください。(お断りする場合もございます。)
また、使用を許可した場合でも、本ブログ名を明記してください。

Twitter始めました。@Kanreport0726

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