宮崎県児湯郡新富町にある航空自衛隊新田原(にゅうたばる)基地の南西には、掩体壕が残っている。
新田原基地は、昭和15年に陸軍飛行場として完成した様だが、
新田原基地HPにも、
昭和15年 陸軍新田原飛行場ができる。
16年 陸軍挺身練習部及び挺身飛行隊が設置される。
17年~ 南方方面作戦の基地となる。
20年 終戦 としか書かれておらず、詳しい事は不明であった。
しかし、こちらのブログ、
唐瀬原 ―陸軍落下傘部隊史―軍都川南の記録さんには、基地建設から戦時中の事、戦後の基地解体、再度、航空自衛隊の基地へ生まれ変わる模様を紹介している。
こちらのブログを引用させていただくと、
航空自衛隊新田原基地の前身となったのは、日本陸軍の新田原飛行場です。
この飛行場は熊谷陸軍飛行学校分教場として昭和15年に建設されました。元々は鐘紡系列の昭和産業が養蚕用桑畑を持っていた場所です。
飛行場建設計画が明らかになったのは昭和12年頃で、翌年4月22日には宮崎県から新田村・富田村の双方に軍用地買収が通達されました。
建設工事に着工したのは、買収が完了した昭和14年2月1日のことでした。
完成した新田原飛行場には、部隊の配属が始まります。
昭和16年2月6日、まず西部101部隊(第九航空教育隊)が黒竜江省チチハルから転入。
同年秋には満洲国白城子飛行学校から陸軍落下傘部隊と挺進飛行隊(降下兵の空輸部隊)も移動してきます。
半年間も雪に閉ざされる白城子では訓練もままならず、冬でも気候温暖でパラシュート降下場を確保できる新田原飛行場が新たな訓練地として選ばれたのです。
間近に迫る南方作戦の切り札として、空挺部隊の練成は一刻を争いました。
挺進練習部(空挺部隊)は北側の川南村にある軍馬補充部高鍋支部塩付分厩をパラシュート降下場へ転換。
新田原を離陸した挺進飛行隊は川南上空で落下傘兵を降下させ、それを何度も繰り返す猛訓練が始まりました。
昭和16年末から年明けにかけて、挺進練習部では2個空挺連隊の編成を完結。
これらの聯隊は、後の第1挺進團(挺進第1聯隊および第2聯隊)となります。
昭和17年のパレンバン降下作戦後も、空挺部隊は規模を拡充し続けます。
第1挺進團に加えて第2挺進團(挺進第3聯隊と第4聯隊)が新設されたことで、新田原飛行場は収容能力の限界を迎えました。
空挺部隊の移転先として、塩付パラシュート降下場の周囲には唐瀬原(からせばる)飛行場と訓練施設群が続々と建設されます。
川南村に唐瀬原飛行場が完成したことで、空挺部隊は新田原飛行場から転出。
以降、この川南空挺基地が「空の神兵」の拠点となりました。
5番目の空挺聯隊は茨城県の西筑波飛行場へ移転し、グライダー部隊の滑空歩兵2コ聯隊へと再編されます。
同時に挺進工兵隊、挺進戦車隊、挺進通信隊、挺進機関砲隊、挺進整備隊といった空挺支援部隊群も新設され、陸軍落下傘部隊は師団規模の「第一挺進集団」へと成長しました。
18年に空挺部隊が唐瀬原へ移った後も、新田原は挺進飛行隊の基地として機能し続けます。
唐瀬原飛行場の空挺隊員は日豊線の列車とトラックを乗り継いで新田原飛行場まで移動し、そこから挺進飛行隊の輸送機で離陸。
唐瀬原の塩付降下場へパラシュート降下で帰還するという訓練を繰返していました。
昭和19年11月5日、新田原飛行場を飛び立った挺進飛行隊は第二挺進団「高千穂空挺隊」と共にフィリピンへ展開。
そして、レイテやバゴロドにおける一連の空挺作戦で大きな損害を蒙りました。
フィリピンで戦う第一挺進集團や第二挺進團に続き、残る第一挺進團も本土決戦への準備に取り掛かります。
翌年春、挺進第一聯隊は九十九里浜防衛のため横芝へ展開。5月8日には挺進第一聯隊から抽出された「義烈空挺隊」が唐瀬原飛行場から熊本の健軍飛行場へ移動します。
義烈空挺隊は2週間後の24日に沖縄へ特攻、途中帰還した4機を除く8機112名全員が戦死しました。
残る挺進第二聯隊と挺進戦車隊は米軍九州上陸に備えて宮崎に温存されます。
昭和19年、第9航空教育隊が島根県へ転出。入れ替わるように、陸軍航空通信学校新田原教育隊の700名が転入して来ます。
通信学校は新田原飛行場の北側(新田原基地から県道44号を北上した高台)に駐屯。卒業生は各戦線へ配属され、その多くが戦死しました。
新田原も、戦争末期には特攻隊の基地となっていきます。
昭和20年4月1日に誠第39飛行隊の6名、3日に誠第32飛行隊の6名、6日に誠第36飛行隊の10名、誠第7飛行隊の9名、誠第8飛行隊の7名の特攻隊員38名が出撃。
また、新田原から他の飛行場を経由して出撃した富嶽隊、第32飛行隊、誠第41飛行隊の特攻隊員は33名。
これらの特攻隊員71名全員が戦死しています。
その後、激しい爆撃を受けた新田原飛行場は機能を停止。
やがて敗戦となり、兵士達はそれぞれの故郷へ復員していきました。
昭和20年末に宮崎へ展開した進駐軍は、新田原飛行場も徹底的に破壊します。
再利用ができないよう滑走路は爆破し、周辺は農地として開放されました。

掩体壕は基地の近くにあり、上空にはT-4練習機がフライパスしている。
これで、テンションだだ上がり。思わず、
翼の凱歌を口ずさむ!

一番西側に残る掩体壕。典型的な陸軍仕様の掩体壕である。

かなり埋まっている様だが、戦闘機などの小型乃至中型機用だろう。

上部の様子。掩体壕自体の状態はとても良い。

振り返ると2つ目の掩体壕が見える。

2つ目の掩体壕に向かう途中、T-4が基地上空で上昇を行い、さらにテンションが上がる。思わず、
燃ゆる大空を口ずさむ!
2つ目の掩体壕。
3つ目の掩体壕に向かう途中には、ファントムの編隊がフライパス。思わず、
機上の歌を口ずさむ!
3つ目の掩体壕。
こちらも状態が良い。

さらに、ファントムの編隊が頭上でブレイク。思わず、
加藤隼戦闘隊を熱唱する!
4つ目の掩体壕。ここに残る掩体壕はすべて原型をとどめている。

掩体壕の形状が良く判る。

後方から見る。

そして、最後にファントムが帰ってきた。
陸軍新田原飛行場掩体壕(一番西)の場所はこちら