矢筈山堡塁 その3
最後に砲座を紹介する。さてこの砲台の備砲であるが、9cmカノン砲×4、15cm臼砲×4説と、15cm榴弾砲×6、9cm臼砲×4説があるが、なぜそうなったのか?どちらが正しいのかは不明。
砲座の名称は、福岡県教育委員会が2020年に発行した「福岡県の戦争遺跡」を参考に説明するが、現地での探索は第4砲座から回ったため逆番号順で紹介する。

まず最初は砲座の北西にある第4砲座を紹介する。最初に紹介したトンネルの前には炊事場があり、その裏にある。

第4砲座。各砲座とも形状には大きな違いはなく、これがカノン砲か榴弾砲か、または臼砲のものかは不明
砲床の形状はわからない。

第4砲座付近からの眺め。

堡塁内を反時計回りに進むと切通があり

地下への入り口がある。見た感じは金属っぽいが、プラスチックかFRPで作られており、叩いたら軽い音がした。
北九州市立矢筈山キャンプ場のHPのフォトギャラリーの中に内部の写真が載っている。

その先には何か建物があったと思われる平地がある。

奥にある階段

堡塁の南西にある第3砲座

第3砲座の砲床。駐鋤(ちゅうじょ)溝(扇形の溝)がある。

さらに進むとコンクリートブロックに囲まれた地下弾薬庫がある。

弾薬庫の様子

弾薬庫の先にある、第2砲座への登り口

堡塁の南東側にある、第2砲座

第2砲座の砲床。こちらにも駐鋤(ちゅうじょ)溝(扇形の溝)がある。

第1砲座と第2砲座の間にある地下弾薬庫。ここもブロックで囲まれており入れない。

弾薬庫の様子

堡塁の北東側にある第1砲座。砲床は確認できない。
詳しくは見ていないが、第2砲座と第3砲座の砲床は同じ形状に思える。
そうなると、第1砲座と第4砲座。第2砲座と第3砲座に同じ砲を備えていたのだろう。
また、胸墻にある凹みを見ると各砲座に2門を備えていたと思われ、砲の種類は分からないが、計8門の備砲だったのではないだろうか?

第1砲座の先にある何かの基礎。
砲座の名称は、福岡県教育委員会が2020年に発行した「福岡県の戦争遺跡」を参考に説明するが、現地での探索は第4砲座から回ったため逆番号順で紹介する。

まず最初は砲座の北西にある第4砲座を紹介する。最初に紹介したトンネルの前には炊事場があり、その裏にある。

第4砲座。各砲座とも形状には大きな違いはなく、これがカノン砲か榴弾砲か、または臼砲のものかは不明
砲床の形状はわからない。

第4砲座付近からの眺め。

堡塁内を反時計回りに進むと切通があり

地下への入り口がある。見た感じは金属っぽいが、プラスチックかFRPで作られており、叩いたら軽い音がした。
北九州市立矢筈山キャンプ場のHPのフォトギャラリーの中に内部の写真が載っている。

その先には何か建物があったと思われる平地がある。

奥にある階段

堡塁の南西にある第3砲座

第3砲座の砲床。駐鋤(ちゅうじょ)溝(扇形の溝)がある。

さらに進むとコンクリートブロックに囲まれた地下弾薬庫がある。

弾薬庫の様子

弾薬庫の先にある、第2砲座への登り口

堡塁の南東側にある、第2砲座

第2砲座の砲床。こちらにも駐鋤(ちゅうじょ)溝(扇形の溝)がある。

第1砲座と第2砲座の間にある地下弾薬庫。ここもブロックで囲まれており入れない。

弾薬庫の様子

堡塁の北東側にある第1砲座。砲床は確認できない。
詳しくは見ていないが、第2砲座と第3砲座の砲床は同じ形状に思える。
そうなると、第1砲座と第4砲座。第2砲座と第3砲座に同じ砲を備えていたのだろう。
また、胸墻にある凹みを見ると各砲座に2門を備えていたと思われ、砲の種類は分からないが、計8門の備砲だったのではないだろうか?

第1砲座の先にある何かの基礎。
矢筈山堡塁 その2
矢筈山堡塁 その1
JR鹿児島本線、小森江駅の東方約1km、矢筈山の山頂付近には矢筈山堡塁があった。
現在は北九州市立矢筈山キャンプ場となっており、多くの遺構が残っている。
矢筈山堡塁は明治28年に起工し、明治31年竣工。備砲は9cmカノン砲×4、15cm臼砲×4であった。(学研 日本の要塞 参照)
ただ、日本築城史にはこの堡塁の記載は無く、HP北九州市まちかど探検さんには、15cm榴弾砲×6、9cm臼砲×4となっている。これは、「北九州の戦争遺跡」(北九州平和資料館をつくる会編)に、そう書かれているからだと思われる。(その後に購入した福岡県教育委員会発行の「福岡県の戦争遺跡」にも、15cm榴弾砲と記されている。)
キャンプ場として管理されているために状態は良く、また、市民のハイキングコースとなっており、多くの人と会った。

対向車がきたらどうしよう?と思う旧軍道を車で登るが、途中で進入禁止になるため徒歩で登る。

途中で見付けた境界石。陸軍とだけ彫られている。
フラッシュを使うと白くなってしまうが

フラッシュを使わないとピンボケになってしまう。

20分ほど九十九折を登ると、石垣が見えてくる。

そのまま進むと、堡塁の入り口がある。

入口付近には、門柱と思われるレンガ塊が転がっている。

堡塁に入ってすぐ左には、濾過槽があったと思われるスペースと

右手には、衛兵所だろうか?何か建物があったであろう、スペースがある。

その先には切通しがあり

切通しを過ぎると、左手にトンネルがある。

トンネルの入り口

トンネルの内部。トンネル側面は石積みであり、両側に向かい合う形で掩蔽部がある。

左側の掩蔽部。入り口上の石材に何か書かれているかもしれないが、見逃す!

内部の様子

こちらは右側の掩蔽部

内部の様子。こちらは奥行きがない。

反対側から見る。
矢筈山堡塁の場所はこちら
現在は北九州市立矢筈山キャンプ場となっており、多くの遺構が残っている。
矢筈山堡塁は明治28年に起工し、明治31年竣工。備砲は9cmカノン砲×4、15cm臼砲×4であった。(学研 日本の要塞 参照)
ただ、日本築城史にはこの堡塁の記載は無く、HP北九州市まちかど探検さんには、15cm榴弾砲×6、9cm臼砲×4となっている。これは、「北九州の戦争遺跡」(北九州平和資料館をつくる会編)に、そう書かれているからだと思われる。(その後に購入した福岡県教育委員会発行の「福岡県の戦争遺跡」にも、15cm榴弾砲と記されている。)
キャンプ場として管理されているために状態は良く、また、市民のハイキングコースとなっており、多くの人と会った。

対向車がきたらどうしよう?と思う旧軍道を車で登るが、途中で進入禁止になるため徒歩で登る。

途中で見付けた境界石。陸軍とだけ彫られている。
フラッシュを使うと白くなってしまうが

フラッシュを使わないとピンボケになってしまう。

20分ほど九十九折を登ると、石垣が見えてくる。

そのまま進むと、堡塁の入り口がある。

入口付近には、門柱と思われるレンガ塊が転がっている。

堡塁に入ってすぐ左には、濾過槽があったと思われるスペースと

右手には、衛兵所だろうか?何か建物があったであろう、スペースがある。

その先には切通しがあり

切通しを過ぎると、左手にトンネルがある。

トンネルの入り口

トンネルの内部。トンネル側面は石積みであり、両側に向かい合う形で掩蔽部がある。

左側の掩蔽部。入り口上の石材に何か書かれているかもしれないが、見逃す!

内部の様子

こちらは右側の掩蔽部

内部の様子。こちらは奥行きがない。

反対側から見る。
矢筈山堡塁の場所はこちら
古城山砲台
北九州市門司区にある和布刈(めかり)公園には古城山砲台の遺構が残っている。
古城山砲台は、明治21年起工し、同23年に竣工した、24cm臼砲を12門装備した砲台であった。
現在、砲座付近は駐車場になっており、観測所と掩蔽部のみが残っている。
こちらもすぐ近くまで車で行ける、非常に行き易い砲台遺構である。

アクセスポイントから山を登ること5分で掩蔽部が見えてくる。

反対側から見る。当日は木の伐採作業中であったが、偶然にも訪ねた時間がお昼休みで作業をしていなかった。

掩蔽部のアップ。器具庫ではなかろうか?

掩蔽部の正面には、砲台跡地によく見られる石積みの区画がある。伐採した枝が集められており確認できず。

周りは石垣が築かれているが、これは射朶ではなく、単に防護壁だと考える。
理由としては、石垣の高さから水平射撃するには石垣が防護壁となるが、山の斜面を駆け登って来る敵を射撃するには完全に体を乗り出さなければならず、逆に身を敵に晒すからである。

掩蔽部の正面には階段があり、写真右の階段を登る。(左は後付けだと思われる。)

そこから階段が続いており

それを登ると

観測所に行き着く。
この観測所の特徴は、下からまっすぐ階段で観測所に行くのではなく、入り口付近で大きく回り込んで観測所に入ることである。

観測所は埋まってしまっている。

外から観測所を見る。

別の角度から見る。
さて、この古城山砲台であるが、最初は古城山堡塁の遺構だと思っていた。
理由としては、観測所の正面方向が東南東であり、現在、関門橋が架けられている、一番狭い方向ではなく、内側に向いており、砲座の列線からも射撃方向は北東方向である。
そのため、田野浦海岸から上陸する敵を迎え撃つ堡塁と判断したが、調べたところ古城山堡塁は機関銃を備える堡塁であることから、砲台の遺構のようである。
この砲台であるが、豊後水道を北上し、関門海峡を通り西に逃げようとする敵を迎え撃つものものなのか、関門海峡を通り終わった敵を追い撃ちするためのものかは不明だが、当時の思想が反映されており、それを考えるのも楽しい。
古城山砲台へのアクセスポイントはこちら
古城山砲台は、明治21年起工し、同23年に竣工した、24cm臼砲を12門装備した砲台であった。
現在、砲座付近は駐車場になっており、観測所と掩蔽部のみが残っている。
こちらもすぐ近くまで車で行ける、非常に行き易い砲台遺構である。

アクセスポイントから山を登ること5分で掩蔽部が見えてくる。

反対側から見る。当日は木の伐採作業中であったが、偶然にも訪ねた時間がお昼休みで作業をしていなかった。

掩蔽部のアップ。器具庫ではなかろうか?

掩蔽部の正面には、砲台跡地によく見られる石積みの区画がある。伐採した枝が集められており確認できず。

周りは石垣が築かれているが、これは射朶ではなく、単に防護壁だと考える。
理由としては、石垣の高さから水平射撃するには石垣が防護壁となるが、山の斜面を駆け登って来る敵を射撃するには完全に体を乗り出さなければならず、逆に身を敵に晒すからである。

掩蔽部の正面には階段があり、写真右の階段を登る。(左は後付けだと思われる。)

そこから階段が続いており

それを登ると

観測所に行き着く。
この観測所の特徴は、下からまっすぐ階段で観測所に行くのではなく、入り口付近で大きく回り込んで観測所に入ることである。

観測所は埋まってしまっている。

外から観測所を見る。

別の角度から見る。
さて、この古城山砲台であるが、最初は古城山堡塁の遺構だと思っていた。
理由としては、観測所の正面方向が東南東であり、現在、関門橋が架けられている、一番狭い方向ではなく、内側に向いており、砲座の列線からも射撃方向は北東方向である。
そのため、田野浦海岸から上陸する敵を迎え撃つ堡塁と判断したが、調べたところ古城山堡塁は機関銃を備える堡塁であることから、砲台の遺構のようである。
この砲台であるが、豊後水道を北上し、関門海峡を通り西に逃げようとする敵を迎え撃つものものなのか、関門海峡を通り終わった敵を追い撃ちするためのものかは不明だが、当時の思想が反映されており、それを考えるのも楽しい。
古城山砲台へのアクセスポイントはこちら