小倉北方営所に残る陸軍遺構その3 記念碑など

駐屯地内には記念碑なども多く残っているので紹介する。

小倉記念碑等 (5)
史料館の門柱。将校集会所の門柱かと思うが、全く違うかも・・・

小倉記念碑等 (7)
摂政皇太子(後の昭和天皇)御手植えの松

小倉記念碑等 (9)
高松宮殿下御手植えの松

小倉記念碑等 (10)
軍人勅諭の碑 昭和7年1月4日勅諭御下賜50年を記念して建立された。
野戦重砲兵第5連隊長の謹書であることから、同連隊の物と思われる。

小倉記念碑等 (2)
乃木将軍居住の祉の石碑 これは小倉市内にあったのだが、戦後に「将軍とはけしからん」との声を受け、撤去することになったが受け入れ先がなかったので、自衛隊が保存しているのだとか。

小倉記念碑等 (3)
長門級40cm主砲砲弾

小倉記念碑等 (4)
歩兵第14連隊趾の碑
以上は史料館付近に残されている。

小倉記念碑等
勅諭御下賜五十周年記念碑 第十二師団経理部小倉派出所職員一同により建立された。

小倉記念碑等 (6)
嗚呼忠列ユフタ之戦士(以下不明)碑
ユフタ戦士とは、シベリア出兵に派遣された野砲兵12連隊第5中隊の将兵(1個小隊)が、大正8年2月、ユフタ付近で優勢なる敵と遭遇、勇戦奮闘するも中隊長ほか34名全員が戦死した。
同連隊第3中隊は、弔い合戦のために歩兵第14連隊と共に、この敵を捕捉壊滅させ敵指揮官を捕虜としたが、2名の戦死者を出した。
野砲兵第12連隊は、この武勲を永久に記念するため大正10年、営庭に記念碑を建立。大正14年、ここに移転してきた野戦重砲兵第6連隊も、武人の鑑としてこの碑を仰いだ。
戦後、米軍進駐に際しこの碑は埋められたが、昭和38年に再建された。(説明板から抜粋)

小倉記念碑等 (8)
詳細不明の記念碑
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小倉北方営所に残る陸軍遺構その2 その他の建物

小倉駐屯地内には、陸軍当時からの建物と思われる物が数棟残っている。
通常の見学コースには入ってなく、業務、訓練の都合で見学できない場合があります。

小倉駐屯地建物
史料館近くの建物。もしかしたら、違うかも?

小倉駐屯地建物 (5)
こちらは、当時の物で間違いないだろう。

小倉駐屯地建物 (3)
窓枠など、当時の特徴を残している。

小倉駐屯地建物 (7)
反対側から見る。

小倉駐屯地建物 (8)
屋根は替えられているが、オリジナル性は高いと思われる。なお、当時の配置図が無いので、どこの部隊の物かはどれも分からない。

小倉駐屯地建物 (2)
内部の様子。

小倉駐屯地建物 (6)
器具庫であろうか?

小倉駐屯地建物 (4)
壁はトタンに、また窓枠も替えられていてオリジナル性は低いが、当時の建物の特徴をよく表している。

小倉北方営所に残る陸軍遺構その1 歩兵連隊将校集会所

現在、陸上自衛隊小倉駐屯地がある場所は、陸軍の北方営所であった。
多くの衛戍地でも同じなのだが、昭和12年に日中戦争が始まると、多くの部隊が出征し、多くの特設連隊が作られた。これは昭和20年の終戦まで続き、いつからいつまで、どの部隊が使っていたか判らない事も多い。
さて、この北方営所も同じであり、大正15年の軍縮で師団が移転し、ここに兵営を置いていた部隊も、移転や廃止になったために、不明な点が多い。
小倉には明治8年、歩兵第14連隊の兵営が置かれていたが、明治31年に第12師団が小倉に新設され、北方に営所を作った。当初は、歩兵第47連隊、砲兵第12連隊、騎兵第12連隊、工兵第12大隊、輜重兵第12大隊、陸軍衛戍病院の屯所であったが、師団移転により、病院以外のすべての部隊は移転、廃止となった。
師団移転後、関東大震災で壊滅的な被害を受けた陸軍造兵廠東京工廠の移転が決まり、歩兵第14連隊の衛戍地が用地となり、当連隊が北方に移った。また、下関から野戦重砲兵第5連隊・第6連隊が移駐し、昭和10年、12師団全部隊がソ満の国境警備に出るまで駐屯した。
その後は、留守部隊が業務を行い、連隊の補充や、特設連隊の創設を行っていたと思われるが、駐留部隊の詳細は不明。
終戦時は、野戦重砲兵留守隊から派生した、高射砲の教育隊が主となって北方に駐屯していたようである。
今回紹介する遺構も、歩兵第47連隊将校集会所として建てられ、その後は歩兵第14連隊将校集会所として使われた様だが、その後の事は不明であるが、今回は判明している歩兵連隊の将校集会所として紹介する。

この建物は、北方に営所が置かれた明治31年頃の建築で、現在は陸上自衛隊小倉駐屯地史料館として使われている。

小倉将校集会所
将校集会所正面入り口

小倉将校集会所 (3)
こちらは裏側

小倉将校集会所 (2)
裏側出入り口のアップ

小倉将校集会所 (4)
外観上の大きな改装はなさそうだが、残念ながら状態はあまり良くない。

小倉歩兵連隊集会所の場所はこちら

小倉陸軍墓地その2

小倉忠霊塔2忠霊塔の入口。ここは平和公園と言われているようだ。

小倉忠霊塔2 (5)公園内の階段を登ると

小倉忠霊塔2 (7)忠霊塔がある。昭和17年3月建立

小倉忠霊塔2 (3)こちらの手水台は、昭和17年7月建立である。

小倉忠霊塔2 (9)
忠霊塔のアップ。この忠霊塔は、佐賀の乱以降、各戦役、事変の戦没者並びに公務死亡者を合祀している。

小倉忠霊塔2 (11)さらにこちらには、当時の物と思われる手水台(線香台?)がありこの奥には階段がある。ここにあるものは、旧陸軍墓地から移設されたものだろう。

小倉忠霊塔2 (10)
奉献と書かれた石柱。詳細は不明だが、勅諭御下賜50周年記念と書かれているので、昭和7年に建てられたものだろう。

小倉忠霊塔2 (2)さらに奥には、満州上海事変戦病死者合同碑と、個人墓2基がある。

小倉忠霊塔2 (4)満州上海事変戦病死者合同碑

小倉忠霊塔2 (6)
向かって右にある墓石。(以下は説明板から抜粋)
陸軍歩兵2等卒 渡久地 政正墓 歩兵第14連隊第8中隊 明治44年2月17日死と書かれている。
名前から沖縄の人だろうか?なぜ、この人の墓石が残っているのかは不明。

小倉忠霊塔2 (8)
さらに左は、露国ザバイカル○○コザックチルチェンスキー第1連隊 陸軍歩兵卒 ホ○○ースワシリー之墓がある。
日露戦争の捕虜の物と思われる。
なお、同様の物が南小倉の普門寺にもあるようだ。

小倉陸軍墓地

JR日豊本線城野駅の北東約1kmには、忠霊塔がある。
元々陸軍墓地は南小倉駅に近い南小倉小学校付近にあったようだが、昭和17年に現在地に移ったようである。
旧陸軍墓地は小学校になっているのと、付近が住宅地になっているので、詳しく調べることは出来なかった。
さて、この場所は正確に言うと陸軍墓地ではないのだが、陸軍墓地として紹介する。

小倉忠霊塔1
参道入り口には、忠霊鎭護之地の碑がある。

小倉忠霊塔1 (5)旧参道だろう、忠霊塔に向かう道。
見難いが向かって左、手前の木の根元に石柱があるのがお判りだろうか?

小倉忠霊塔1 (2)
まさかとは思ったが、陸軍の境界石だった。

小倉忠霊塔1 (3)
さらに奥と

小倉忠霊塔1 (4)
道路を挟んだ反対側にもあった。

小倉陸軍墓地(忠霊塔)入口はこちら
プロフィール

神崎 伸介

Author:神崎 伸介
酒とミル貝刺と、手羽先をこよなく愛し、日々全国の旧軍遺構を訪ね歩く自他共に認める変わり者です。

紹介する遺構の説明は正確を心がけてますが、間違いや情報があれば、是非とも教えてください。
また、ここで紹介する遺構は訪ねてから紹介するまでに、時間が経っている物も有り、必ずしも現状で無い場合がありますのでご注意ください。
本ブログに掲載されている写真の無断使用は禁止します。

Twitter始めました。@Kanreport0726

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