伊島防備衛所

徳島県阿南市の伊島は、紀伊水道の入口にあり、大正12年の要塞整理の際には、30cmカノン砲2門の砲塔砲台1基を作る計画が浮上したが、取り止めとなっている。また、昭和14年頃から、海軍の防備衛所が置かれたようである。今回の伊島訪問はこちらのHPを参考にさせていただいた。

さて、伊島への行き方であるが、かなり分かり難い。
徳島から各駅の汽車で(徳島県は全国で唯一、電車が走ってない)約1時間、阿波橘駅で下車する。

さて、余談ではあるが、この汽車の乗り方も少し違っているので紹介しよう。
朝、徳島から阿波橘に向かう時は、通勤通学時間という事もあり、2両編成で、徳島駅で切符買って乗車、阿波橘駅では開いたドアから下車するのは、どこの駅でも同じであるが、阿波橘駅には改札が無い。したがって、切符の回収はホームで車掌が行っているので、駅に着いたからと言ってホームでのんびりしていると、発車出来ないのでご注意を。
逆に、昼の時間帯に徳島方面に向かう時は、1両編成のワンマンカーであった。
先程も書いた様に、阿波橘駅には改札は無く、改札どころか券売機も無い。
ではどうするかと言えば、到着した汽車は、3つドアであっても一番前と一番後のドアしか開かなく、乗車は後ろのドアから、下車は前のドアから行う。乗車すると、整理券があるので、整理券をとる。運転手の後ろには料金箱と運賃表があるので、降りる時に整理券と運賃をそこに入れる、いわゆるバスと同じ方式である。(駅員のいる駅では、改札で清算する。)

阿波橘駅から、フェリー乗り場(答島港)へも、分かりにくい。人に聞こうにも誰もいない・・・
駅から歩いて10分程であるが、場所を把握してから行くようにしてもらいたい。
フェリーの時間であるが、日帰りで渡るには08:30と12:30しか無く、帰りの便は季節によって違うが、15時前後の1本しかない。(詳しくはこちら
また、島にはお店が漁協の売店しかなく、お弁当を持参した方が無難だろう。
今回の訪問時、愛用のデジカメ不調で、携帯カメラで撮りました。そのためにサイズがいつもと違っています。写真をクリックすると全体が見れます。

では、本題に入ろう。

伊島出航して右手に見える発電所のある島は、小勝島で震洋の基地があった様だが、詳細は不明。

伊島 (17)伊島の全景。戦争末期には防空機銃陣地もあったようだ。場所については、松林寺の裏山にあった様で、松林寺の前の階段を更に登ると、鐘楼と携帯電話のアンテナに行き着く。その右手に、細い道があるので、そこを登った所に祠があり、その先にあったらしいのだが、案内してくれた人も実際には見た事が無く、詳細は不明らしい。
付近まで行ったが、草がひどくて判らなかった。

伊島 (6)もう1つの遺構である兵舎への行き方は、灯台に向かう道を進むと、貯水池がある。

伊島 (7)さらにその先には池があり

伊島 (8)その先にも、貯水池があり、この貯水池を過ぎたらすぐに

伊島 (9)道の左に、コンクリート製の塀の様な物がある。

伊島 (2)その先には、兵舎または炊事場と思われるレンガ造りの遺構が残る。

伊島 (3)道なりに進むと、左にカーブしていて、そこには貯水槽がある。

伊島 (4)兵舎または炊事場と思われる遺構の、道を挟んで向かい側には発電所と言われる遺構が2棟残っている。写真左(正面から見て右)の小さい建物は油脂庫だろうか?

伊島 (15)油脂庫と思われる建物。

伊島 (5)油脂庫と並んで建つ、発電所と言われる建物。

伊島 (10)発電所を前方方向から見る。レンガをモルタルで覆っているのが判るだろう。
さて、この場所だが、夏場に訪ねた事もあり蚊がもの凄く多い。私の人生で一番蚊に刺された。歩いているだけで、周りは蚊だらけで、最近、加齢とともに聞こえなくなっていたモスキート音がずっと聞こえ続ける。
写真を撮るために停止すると、腕には数匹の蚊があっという間に止まる。そして、同時に3匹は蚊を叩ける。
とにかく、動きを止められない。ざっと数えただけで、20数か所刺されて、戦意喪失・・・

伊島 (11)建物の奥には、波線2本、海軍の境界石がある。

伊島 (12)
裏面には、第19号と書かれている。

伊島 (13)境界石と建物の位置関係が判るだろう。探せば、境界石はもっとあるかもしれない。

伊島 (14)境界石の近くには、半分埋まった壕がある。この他にもいくつかある様だ。

伊島 (16)
兵舎跡近く道路沿いには、いくつかの気になる道があったが、あまりの痒さにギブアップ状態で、この先に遺構があるかを確かめる気力は、もう残って無かった・・・

伊島行きフェリー乗り場はこちら
スポンサーサイト

徳島海軍航空基地

現在の徳島阿波おどり空港は、かつて徳島海軍航空基地であった。
徳島海軍航空基地は、昭和13年8月に用地買収が開始された。ただ、徳島の場合、この一帯は農地であったが塩害もあり農業が上手くいかず、軍の飛行場を誘致したため、用地買収は上手く行った。
昭和14年9月に起工し、昭和18年6月に竣工した。
翌年2月からは偵察員教育が実施されるが、昭和20年3月には特攻を主とした実戦部隊となり、多くの隊員が特攻へと旅立った。
今回訪ねた遺構は2つだが、これ以外にも物資保管壕がある様だ。
(春野 公麻呂氏著「四国の戦争遺跡ハイキング」を参照)

徳島空営外宿舎 士官及び兵舎に寝泊まりしない下士官用の宿舎。現在は個人宅になっている。

徳島空 (2)
丙九十号住宅 昭和17年10月19日の文字が読み取れる。

徳島空 (3)弾薬庫

徳島空 (4)別の角度から見る。
この弾薬庫を撮る場合は、道路から撮影し、敷地内には絶対に立ち入らない様にして下さい。

営外宿舎は個人宅である事、弾薬庫は過去に問題が生じたらしいので、場所は記載しない。

徳島陸軍墓地

徳島連隊兵営の南には徳島陸軍墓地があり、現在は西部公園となっている。
忠霊塔とドイツ水兵の個人墓が残っているが、遺構は少ない。

徳島陸軍墓地
西部公園登り口
にある石柱。陸軍墓地入口だと思われるが、軍の途中で折れてしまっている。

徳島陸軍墓地 (2)これが旧参道であろう。現在は、車で上まで上がれる。

徳島陸軍墓地(7)陸軍墓地の入口。古い欄干と燈篭が残っている。

徳島陸軍墓地 (3)
駐車場付近に残っている、忠霊顕彰記念碑 昭和17年8月、徳島県忠霊顕彰会建立

徳島陸軍墓地 (4)さらに進めば、忠霊塔の登り口があり、階段の手前、左方向には、

徳島陸軍墓地 (5)2人のドイツ海軍兵の個人墓がある。これは、第1次世界大戦、青島での捕虜であろう。

徳島陸軍墓地 (6)
忠霊塔 昭和17年5月30日建立

徳島陸軍墓地の場所はこちら

徳島連隊跡地

徳島市蔵本町には徳島連隊の兵営が置かれていた。
四国には丸亀12連隊や、松山22連隊と歴史のある連隊や、第11師団新設により創設された、善通寺43連隊、高知44連隊があったが、徳島には郷土連隊が無く、県民の誘致により明治41年11月に、歩兵第62連隊が新兵営に移駐した。
しかし、歩兵第62連隊は、宇垣軍縮により廃止となり、新たに善通寺から歩兵第43連隊が移駐してきて、郷土連隊となった。
日中戦争では、上海方面での作戦に従事し、第11師団の満州駐劄に伴い、満州の警備任務に就く。
昭和19年3月、南方警備のために第3大隊を派出する。大隊は約4ヶ月後、グァムで玉砕する。
後に連隊主力が、四国防衛のために郷土に帰り、敵と戦火を交えることなく終戦を迎える事を思うと、運命の残酷さを感じる。
兵営跡地は現在、徳島大学医学部、徳島大学病院になっていて、遺構は皆無に近い。

徳島連隊碑元練兵場だった、JAバンク ちびっこ広場には、記念碑が残されている。

徳島連隊碑 (2)
歩兵連隊跡の碑

徳島連隊碑 (3)
馬魂碑 昭和11年11月建立 今回見つけた唯一の歩兵第43連隊遺構である。

徳島連隊碑 (4)
歩兵第143連隊之碑

徳島連隊碑 (5)
歩兵第235連隊 鯨部隊発祥之地の碑

徳島陸軍病院碑
さらに、陸軍病院跡地に残る、記念碑。

徳島連隊の碑があるのはこちら
プロフィール

神崎 伸介

Author:神崎 伸介
酒とナマコ酢と、セロリをこよなく愛し、日々全国の旧軍遺構を訪ね歩く異様に静電気を恐れる正統派変人です。

紹介する遺構の説明は正確を心がけてますが、間違いや情報があれば、是非とも教えてください。
また、ここで紹介する遺構は訪ねてから紹介するまでに、時間が経っている物も有り、必ずしも現状で無い場合がありますのでご注意ください。
本ブログに掲載されている写真の無断使用は禁止します。

Twitter始めました。@Kanreport0726

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
FC2カウンター
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR