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高知陸軍墓地 その2

前回は、墓地周辺の遺構を紹介したので、今回は慰霊碑と個人墓を紹介する。

高知陸軍墓地 (7)入口入ってすぐの風景。手前の燈篭は昭和17年に建てられた。

高知陸軍墓地 (4)正面向かって左には、手水台があり、その奥に個人墓が並ぶ。

高知陸軍墓地 (8)
正面奥には忠霊塔が聳える。

高知陸軍墓地 (9)
日露役戦歿者墓碑 昭和14年11月建立

高知陸軍墓地(16)
満州事変戦歿将士合葬之墓 昭和8年9月建立

高知陸軍墓地 (12)入口方向から見た個人墓

高知陸軍墓地 (11)奥から見る。前に将校の、後ろに下士卒の墓がある。明治37年8月、旅順要塞東鶏冠山と彫られた墓石が多数見られた。

高知陸軍墓地 (14)見ての通り、状態は悪い。個人墓が作られたのは、初期の戦死者のみであろう。

高知陸軍墓地 (13)非常に残念な光景である。
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高知陸軍墓地 その1

高知市朝倉には、高知陸軍墓地が残っている。
さて、高知陸軍墓地を訪ねたのが、5月半ばであったが、とにかく蚊が凄かった!
写真を撮ろうと止まると、何匹も身体にとまり、あっという間に数か所を刺されてしまった。
あまりの痒さに士気が下ってしまったのと、ゆっくり撮影や墓石を拝んでいると、全身刺されまくりになるので、早々に退散してしまった・・・

高知陸軍墓地朝倉中学校の南側にある入口

高知陸軍墓地 (3)
階段を登ると左手には、陸軍省所轄地の境界石がある。

高知陸軍墓地 (5)陸軍墓地の門柱

高知陸軍墓地 (6)
表札には、陸軍墓地の文字が残る。

高知陸軍墓地 (15)
裏門と思われる門柱も残っている。

高知陸軍墓地 (2)
さらにこちらにも、境界石がある。(個人宅の隣にあり、ワンちゃんに、これでもか!ってくらい吠えられます・・・)

高知陸軍墓地 (10)当時の物と思われる、境界塀。

高知陸軍墓地の場所はこちら

歩兵第44連隊 

JR土讃線朝倉駅の南に位置する、高知大学のキャンパスは、かつて、歩兵第44連隊の兵営で有った。
歩兵第44連隊は、第11師団新設のために創設された連隊で、明治31年3月に軍旗を拝受した。
日露戦争では、旅順攻略戦に参加し、多大な被害を受けた。
大正期にはシベリア出兵に参加。
日中戦争では上海方面の作戦に従事、昭和14年には満州東部に駐劄、以後、現地での警備任務に就く。
昭和20年4月、本土防衛のために四国へ転用され、高知において本土決戦の準備にかかるが、敵と会戦前に終戦を迎える。
多くの部隊が、南方や大陸で玉砕する中、わが郷土で戦火を交えることなく終戦を迎えた、幸運な連隊である。

歩44 (4)キャンパスの北東には、当時の境界塀と思われる古い塀が残っている。

歩44 (3)内側から見る。

歩44 (5)古くから住む人の話では、この庭園も連隊当時の物らしい。将校集会所の庭園か?

歩44
軍人勅諭御下賜50周年を記念して、営門南方に建立した記念碑。しかし、終戦後にはその場に、放置埋没されていたのを、昭和33年に陸軍墓地に移設した。

歩44 (2)
碑のアップ。軍人勅諭の5ヶ条が彫られている。

歩44 (6)キャンパス内に残るセンダンの大木。キャンパス内には何本かのセンダンの大木が残っており、これらは連隊当時から有った物らしい。

歩44 (7)高知大学に隣接する一角には、弾薬庫と言われる建物が残っている。

歩44 (8)現在、この建物は使われておらず、保存運動があるようだが、場合によっては近年に取り壊されたしまう可能性もある。

高知陸軍病院また、兵営の南方に陸軍病院が有った。この橋は詳細不明だが、欄干に赤十字が飾られている。それなりに古いので、陸軍病院の物かもしれない。

歩兵第44連隊弾薬庫の場所はこちら

南国市十市に残るトーチカ群

南国市十市の山中にも、トーチカが残っている。
今回も、春野公麻呂氏著「四国の戦争遺跡ハイキング」を参考にした。
付近の山中には、まだ多くの防御陣地があるようだが、今回訪ねたのは、ここのみである。

十市トーチカ (11)さて、行き方であるが、場所が特定できてないと、行き着けないだろう。
住人の方がいらっしゃったので、お宅の敷地内を通していただき、また、付近のお話を伺う事が出来た。
(誰もいない時は、立ち入らない様にしてください。)

十市トーチカ (10)お宅の裏にある道を登ると、

十市トーチカ (9)大きな木に行き着く。写真右方向に行くと

十市トーチカ (8)最初のトーチカがある。訪ねたのが5月半ばだったので、草に覆われてしまっている。

十市トーチカ (7)大きな木の陰に隠れて見えないが、竹で造られた階段を登り、左方向に行くと、2つ目のトーチカがある。

十市トーチカトーチカの正面。状態は良い。

十市トーチカ (2)さて、ここに残るトーチカは、山の斜面に窪地を作り、その前面と上部にのみ防護壁を備えている。

十市トーチカ (3)トーチカの背面。各トーチカはお互いを援護する位置には無く、戦闘に入ると孤立する。

十市トーチカ (4)2つ目のトーチカの背後には、塹壕が掘られている。

十市トーチカ (6)塹壕に沿って斜面を登ると、尾根には大きな窪地がある。指揮所(監視所)または、兵員待機所だろうか?

十市トーチカ (5)そこから急な下りの塹壕を降りて行くと、

十市トーチカ(12)3つ目のトーチカがあるが、こちらは崩れてしまっている。3つのトーチカは同型だと思われる。

十市トーチカ(13)この崩れたトーチカの背後には、2つの壕がある。

トーチカの入り口はこちら

南国市前浜に残るトーチカ

太平洋戦争末期、鹿児島、遠州灘、相模湾、九十九里浜などと並んで、土佐湾も米軍の上陸地点と予想され、多くの沿岸防御陣地が造られた。そのうちの1つが、前浜に残っている。

前浜トーチカ (6)海岸線に1基だけ残っている。

前浜トーチカ (2)正面から見る。これは銃眼ではなく、監視窓ではなかろうか?

前浜トーチカ右斜め前方から見る。高さがあるのが特徴だ。

前浜トーチカ (3)左斜め前から見る。左右斜め前方に向けて大砲用の開口部がある。

前浜トーチカ (7)右斜め後方から見る。トーチカの形が良く判るであろう。

前浜トーチカ (4)背面の出入り口

前浜トーチカ (5)内部の様子

前浜のトーチカの場所はこちら
プロフィール

kan

Author:kan
酒とナマコ酢と、ミル貝刺をこよなく愛し、全国の旧軍遺構を訪ね歩く、自他共に認める正統派の変人です。
変人ですが、「変態!」と言われると烈火の如く怒ります。
腰はガラスの腰と言われ、定期的に壊れます!

紹介する遺構の説明は正確を心がけてますが、間違いや情報があれば、是非とも教えてください。
基本、酒を飲んでブログを書いてます。誤字や文章がおかしい時は、かなり酔っていると思ってください。
また、ここで紹介する遺構は訪ねてから紹介するまでに、時間が経っている物や、すでに消失している物も有り、必ずしも現状で無い場合がありますのでご注意ください。
本ブログに掲載されている写真の無断使用は禁止します。
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また、使用を許可した場合でも、本ブログ名を明記してください。

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