高知陸軍墓地 その1
高知市朝倉には、高知陸軍墓地が残っている。
さて、高知陸軍墓地を訪ねたのが、5月半ばであったが、とにかく蚊が凄かった!
写真を撮ろうと止まると、何匹も身体にとまり、あっという間に数か所を刺されてしまった。
あまりの痒さに士気が下ってしまったのと、ゆっくり撮影や墓石を拝んでいると、全身刺されまくりになるので、早々に退散してしまった・・・
朝倉中学校の南側にある入口

階段を登ると左手には、陸軍省所轄地の境界石がある。
陸軍墓地の門柱

表札には、陸軍墓地の文字が残る。

裏門と思われる門柱も残っている。

さらにこちらにも、境界石がある。(個人宅の隣にあり、ワンちゃんに、これでもか!ってくらい吠えられます・・・)
当時の物と思われる、境界塀。
高知陸軍墓地の場所はこちら
さて、高知陸軍墓地を訪ねたのが、5月半ばであったが、とにかく蚊が凄かった!
写真を撮ろうと止まると、何匹も身体にとまり、あっという間に数か所を刺されてしまった。
あまりの痒さに士気が下ってしまったのと、ゆっくり撮影や墓石を拝んでいると、全身刺されまくりになるので、早々に退散してしまった・・・


階段を登ると左手には、陸軍省所轄地の境界石がある。


表札には、陸軍墓地の文字が残る。

裏門と思われる門柱も残っている。

さらにこちらにも、境界石がある。(個人宅の隣にあり、ワンちゃんに、これでもか!ってくらい吠えられます・・・)

高知陸軍墓地の場所はこちら
歩兵第44連隊
JR土讃線朝倉駅の南に位置する、高知大学のキャンパスは、かつて、歩兵第44連隊の兵営で有った。
歩兵第44連隊は、第11師団新設のために創設された連隊で、明治31年3月に軍旗を拝受した。
日露戦争では、旅順攻略戦に参加し、多大な被害を受けた。
大正期にはシベリア出兵に参加。
日中戦争では上海方面の作戦に従事、昭和14年には満州東部に駐劄、以後、現地での警備任務に就く。
昭和20年4月、本土防衛のために四国へ転用され、高知において本土決戦の準備にかかるが、敵と会戦前に終戦を迎える。
多くの部隊が、南方や大陸で玉砕する中、わが郷土で戦火を交えることなく終戦を迎えた、幸運な連隊である。
キャンパスの北東には、当時の境界塀と思われる古い塀が残っている。
内側から見る。
古くから住む人の話では、この庭園も連隊当時の物らしい。将校集会所の庭園か?

軍人勅諭御下賜50周年を記念して、営門南方に建立した記念碑。しかし、終戦後にはその場に、放置埋没されていたのを、昭和33年に陸軍墓地に移設した。

碑のアップ。軍人勅諭の5ヶ条が彫られている。
キャンパス内に残るセンダンの大木。キャンパス内には何本かのセンダンの大木が残っており、これらは連隊当時から有った物らしい。
高知大学に隣接する一角には、弾薬庫と言われる建物が残っている。
現在、この建物は使われておらず、保存運動があるようだが、場合によっては近年に取り壊されたしまう可能性もある。
また、兵営の南方に陸軍病院が有った。この橋は詳細不明だが、欄干に赤十字が飾られている。それなりに古いので、陸軍病院の物かもしれない。
歩兵第44連隊弾薬庫の場所はこちら
歩兵第44連隊は、第11師団新設のために創設された連隊で、明治31年3月に軍旗を拝受した。
日露戦争では、旅順攻略戦に参加し、多大な被害を受けた。
大正期にはシベリア出兵に参加。
日中戦争では上海方面の作戦に従事、昭和14年には満州東部に駐劄、以後、現地での警備任務に就く。
昭和20年4月、本土防衛のために四国へ転用され、高知において本土決戦の準備にかかるが、敵と会戦前に終戦を迎える。
多くの部隊が、南方や大陸で玉砕する中、わが郷土で戦火を交えることなく終戦を迎えた、幸運な連隊である。




軍人勅諭御下賜50周年を記念して、営門南方に建立した記念碑。しかし、終戦後にはその場に、放置埋没されていたのを、昭和33年に陸軍墓地に移設した。

碑のアップ。軍人勅諭の5ヶ条が彫られている。




歩兵第44連隊弾薬庫の場所はこちら
南国市十市に残るトーチカ群
南国市十市の山中にも、トーチカが残っている。
今回も、春野公麻呂氏著「四国の戦争遺跡ハイキング」を参考にした。
付近の山中には、まだ多くの防御陣地があるようだが、今回訪ねたのは、ここのみである。
さて、行き方であるが、場所が特定できてないと、行き着けないだろう。
住人の方がいらっしゃったので、お宅の敷地内を通していただき、また、付近のお話を伺う事が出来た。
(誰もいない時は、立ち入らない様にしてください。)
お宅の裏にある道を登ると、
大きな木に行き着く。写真右方向に行くと
最初のトーチカがある。訪ねたのが5月半ばだったので、草に覆われてしまっている。
大きな木の陰に隠れて見えないが、竹で造られた階段を登り、左方向に行くと、2つ目のトーチカがある。
トーチカの正面。状態は良い。
さて、ここに残るトーチカは、山の斜面に窪地を作り、その前面と上部にのみ防護壁を備えている。
トーチカの背面。各トーチカはお互いを援護する位置には無く、戦闘に入ると孤立する。
2つ目のトーチカの背後には、塹壕が掘られている。
塹壕に沿って斜面を登ると、尾根には大きな窪地がある。指揮所(監視所)または、兵員待機所だろうか?
そこから急な下りの塹壕を降りて行くと、
3つ目のトーチカがあるが、こちらは崩れてしまっている。3つのトーチカは同型だと思われる。
この崩れたトーチカの背後には、2つの壕がある。
トーチカの入り口はこちら
今回も、春野公麻呂氏著「四国の戦争遺跡ハイキング」を参考にした。
付近の山中には、まだ多くの防御陣地があるようだが、今回訪ねたのは、ここのみである。

住人の方がいらっしゃったので、お宅の敷地内を通していただき、また、付近のお話を伺う事が出来た。
(誰もいない時は、立ち入らない様にしてください。)












トーチカの入り口はこちら
南国市前浜に残るトーチカ
太平洋戦争末期、鹿児島、遠州灘、相模湾、九十九里浜などと並んで、土佐湾も米軍の上陸地点と予想され、多くの沿岸防御陣地が造られた。そのうちの1つが、前浜に残っている。
海岸線に1基だけ残っている。
正面から見る。これは銃眼ではなく、監視窓ではなかろうか?
右斜め前方から見る。高さがあるのが特徴だ。
左斜め前から見る。左右斜め前方に向けて大砲用の開口部がある。
右斜め後方から見る。トーチカの形が良く判るであろう。
背面の出入り口
内部の様子
前浜のトーチカの場所はこちら







前浜のトーチカの場所はこちら