大津島回天基地 その3
回天発射場(元々は魚雷発射場)と整備場はトンネルで繋がっていて、トロッコに載せて移動させていた。
トンネルの入り口
内部の様子。トロッコのレールを埋めた跡が判る。
途中に出入り口があり、戦争末期は対空指揮所になっていた様だ。
ここから見た、発射場
トンネル内には一部広くなっている場所があり、ここでトロッコをすれ違わせた。
ここには当時の写真が展示してある。
トンネルの出口
トンネル出口から見た発射場
発射場のアップ。
正面から見る。
以前は、中央にあるこの穴から酸素魚雷を海面に降ろしていたが、酸素魚雷を改造した回天は、ここからは降ろせず、別のクレーンを使って海面に降ろした。
クレーンは残っていないが、基礎が残っている。
多くの若者がこの地で訓練し、ここから出撃、祖国のために命を捧げたことを忘れてはならない。
遥かなる 都の方を仰ぎ見て 堅く誓はん必殺の雷
海軍中尉(戦死後、少佐)勝山 淳
多聞隊員として、昭和20年7月16日、伊号第53潜水艦で大津島を出撃
昭和20年7月24日沖縄にて駆逐艦に突入 享年20歳












多くの若者がこの地で訓練し、ここから出撃、祖国のために命を捧げたことを忘れてはならない。
遥かなる 都の方を仰ぎ見て 堅く誓はん必殺の雷
海軍中尉(戦死後、少佐)勝山 淳
多聞隊員として、昭和20年7月16日、伊号第53潜水艦で大津島を出撃
昭和20年7月24日沖縄にて駆逐艦に突入 享年20歳
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