浜田陸軍墓地

浜田陸軍墓地は現在、長沢公園となっている。

浜田陸軍墓地陸軍墓地に向かう途中にある境界石。頂部にMが彫られ、正面には第16号と彫られている。

浜田陸軍墓地 (3)
浜田陸軍墓地の碑。これはもちろん戦後の物

浜田陸軍墓地 (2)
浜田陸軍墓地の碑の右下にも、境界石がある。
ここの境界石はこのタイプの物で、他にも同じ物がいくつか見つかった。

浜田陸軍墓地 (4)階段を登ると、まずは日露戦争で亡くなった下士官14名、兵卒17名の墓石がある。

浜田陸軍墓地 (5)その隣には、同じく日露戦争で亡くなった将校9名の墓石がある。

浜田陸軍墓地 (6)下士官兵の墓に比べて、状態は悪い。また、日露戦争での戦病死者の数が、これだけとは考えられないので、他は合葬碑になっているのだろう。

浜田陸軍墓地 (7)さらに一段上がると、北清事変(義和団の乱)で亡くなった人の墓がある。

浜田陸軍墓地 (8)ここには、兵卒203名の墓がある。

浜田陸軍墓地 (9)反対側から見る。地面がコンクリートに替えられてている。

浜田陸軍墓地 (10)さらに階段があり、

浜田陸軍墓地 (13)その上には、日清日露戦役陣没将卒之碑がある。
日清戦争時は、広島に兵営を置いており、合葬墓は広島(比治山)陸軍墓地にあるのだが、わが聯隊の英霊をいつでも拝める様に、ここに建立したのであろう。

浜田陸軍墓地 (11)
碑の前にある燈篭。思ひ起す 国の光や さくら花 と書かれている。昭和5年3月10日(陸軍記念日)建立。

浜田陸軍墓地 (12)
碑を鎖で囲っていただろう支柱にも、☆マークが付いている。

浜田陸軍墓地の場所はこちら
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浜田射撃場

浜田市立松原小学校の南は、射撃場であった。
明治31年の地図では、浜田駅のすぐ北側、川に沿って東西に射撃レーンがあったが、大正3年の地図では松原小学校の南に、南北の射撃レーンとなり、東西のレーンは陸軍作業場となっている。
現在、射撃場、作業場とも区画は残っているものの、住宅地や商業地になっており遺構は少ない。
今回の訪問で見つけた遺構を紹介する。

浜田射撃場 (3)石積み。詳細は不明だが、戦後すぐからあったと言うのと、当時の地図と場所が一致するので、射撃場の遺構と判断する。

浜田射撃場
上記、石積みの西方には沼地があり、その西側には境界石が残っていた。
ただ、古くから付近に住む方の話では、この場所に陸軍墓地には埋葬できない(刑死した人の)お墓があったそうで、その可能性も否定できない。

浜田射撃場 (2)
浜田ビューティーカレッジ背後の斜面に残る境界石
ここで見つけた境界石は、2つともコンクリート製なので、後から設置した物だと推測する。

歩兵第21連隊 その2

今回は、浜田第一中学校と浜田高校敷地内に残っている、覆練兵場を紹介する。
(すべて、学校関係者の方に許可を得て、立ち会いのもと撮影しています。)

歩21 (4)浜田第一中学校に残る覆練兵場

歩21 (2)窓以外の改装は、少ないと思われる。

歩21 (5)全体を見るが、残念ながら逆光。

歩21 (13)浜田高校の覆練兵場。基本的には2棟とも同じ作りであるが、こちらは窓を無くすなど多少の手が加えられている。

歩21 (12)内部の様子。

歩21
浜田護国神社に残されている、木口小平の像。
木口小平は日清戦争で戦死した喇叭卒で、戦闘中に弾に当り戦死したが、その際に喇叭を口から離さずにいた事から、戦前では美談とされ修身の教科書にも載っていた。
この銅像は、昭和7年、軍人勅諭御下賜50周年を記念して営庭に建立された物を、戦後に移設。台座は当時の物であるが銅像自体は復元であるらしい。
なお、小口氏は岡山県出身で、当時広島に兵営を置いていた歩兵第21連隊12中隊に所属はしていたが、浜田自体に縁は無い。

浜田護国神社の場所はこちら

歩兵第21連隊 その1

浜田市にはかつて、歩兵第21連隊の兵営が置かれていた。
歩兵第21連隊の歴史は古く、明治17年6月に編成された第1大隊と、明治19年6月に編成された第2大隊とで創設され、8月17日に軍旗が親授された。
明治20年11月、第3大隊の編成により連隊の編成は完了、兵営を広島に置く。
日清戦争では明治27年6月仁川に上陸。
7月には、成歓の戦いで第12中隊長松崎大尉が、日本側初の戦死者となる。
この戦闘に勝利した日本軍は、勢いそのまま、日清戦争にも勝利し、連隊は凱旋する。
明治31年7月、浜田の新兵営に転営し、浜田第21連隊が誕生する。
明治33年北清事変(義和団の乱)に出兵する。
日露戦争では、第4軍隷下として戦闘に参加、明治38年3月1日に始まった奉天会戦では、その初日に、連隊長を含む233名が戦死、801名の戦傷者を出すも、3月10日に大勝利を収める。
大正4年3月から約2年間、満州駐劄。
昭和12年に勃発した日中戦争では、8月に釜山上陸、北支戦線に参加後、13年2月には徐州作戦、10月には広東作戦、14年2月に中支海州作戦、11月には南寧攻略戦で武勲をたてる。
連隊はそのまま南下し、インドシナ(仏印)進駐作戦に、その後、北上し再び中支戦線に参加する。
太平洋戦争に突入すると連隊は、タイに上陸しマレー半島を南下、シンガポール攻略戦に従事し、昭和17年2月、シンガポールを陥落させる。
昭和18年1月、ジャワ島に転進、連隊主力は濠北地区防衛に、第3大隊は東部ニューギニア戦線に投入されるも、優勢なる敵と過酷な環境条件により撤退を余儀なくされた。
連隊主力は、セラム島にて終戦を迎え、その栄えある歴史に幕を閉じた。
(わが聯隊:ノーベル書房、歩兵第21連隊歴史の碑から抜粋)
兵営跡地は、浜田高校や浜田第一中学校などになっていて、覆練兵場が2棟残っているほか、立哨小屋が移設保存されている。
余談ではあるが、浜田、鯖江(福井県鯖江市)、村松(新潟県五泉市)は田舎の連隊として陸軍士官学校出の将校には敬遠されていた様である。

歩21 (11)町の一角には記念碑と、立哨小屋が2つ残されている。

歩21 (14)さらにその隣には門柱がある。

歩21 (9)
左の門柱。詳細不明であるが正門ではない様な気がする・・・
旧制浜田高等女学校の校門だそうである。詳しくは「元島根県民のお部屋」さんに書かれているのでご覧いただきたい。

歩21 (10)
右の門柱は折れてしまっている。

歩21 (6)歩兵第21連隊跡の碑

歩21 (8)
向かって右の立哨小屋

歩21 (7)
こちらは左の立哨小屋。同型の物が、陸上自衛隊出雲駐屯地にも保存されている。

歩兵第21連隊兵営の場所はこちら

浜田憲兵分隊

浜田市朝日町公園は、浜田憲兵分隊の跡地である。

浜田憲兵分隊塀 (3)この公園と、隣の金物屋さんの周辺には塀が残っている。
金物屋さんにお話を伺ったところ、「推測の域ではあるが、憲兵隊の物だろう」との事だった。

浜田憲兵分隊塀見た感じでは、昭和初期の物と思うが詳細は不明。

浜田憲兵分隊塀 (2)形状に違いがある。

浜田憲兵分隊の場所はこちら
プロフィール

神崎 伸介

Author:神崎 伸介
酒とナマコ酢と、焼き魚(特に、タチウオ、エボダイ、ニシン)をこよなく愛し、日々全国の旧軍遺構を訪ね歩く自他共に認める、正統派の変人です。


紹介する遺構の説明は正確を心がけてますが、間違いや情報があれば、是非とも教えてください。
また、ここで紹介する遺構は訪ねてから紹介するまでに、時間が経っている物も有り、必ずしも現状で無い場合がありますのでご注意ください。
本ブログに掲載されている写真の無断使用は禁止します。

Twitter始めました。@Kanreport0726

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