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騎兵第7連隊覆馬場

陸軍第7師団門柱のすぐ近くには、騎兵第7連隊覆馬場が残っている。
騎兵第7連隊は明治32年に旭川に新兵営を置き、明治35年に編成完了、日露戦争に出征した。
大正期に師団は満州駐箚となり、連隊も満州に移駐したと思われるが詳細は不明。
昭和14年ノモンハン事件に参加し勇戦活躍したが、翌昭和15年、連隊は捜索第7連隊に改編された。
この覆馬場は大正初期の建築と思われ、現在はバス会社の整備場として使われている。

さて、先日も書いたように旭川を訪ねたのは9年前であり、当時はネットで遺構を紹介しようとは思っておらず、残念な写真ばかりである・・・

騎兵7連隊覆馬場 (12)
師団司令部門柱から歩くとすぐに見えてくる。

騎兵7連隊覆馬場 (10)
西側の出入り口。改装はされているが、原形はとどめている。

騎兵7連隊覆馬場 (6)
東側の出入り口

騎兵7連隊覆馬場 (9)
入り口が開いていたので、内部を見せてもらう。天井部分の様子

騎兵7連隊覆馬場 (8)
造りが分かるであろう。

騎兵7連隊覆馬場 (7)
覆馬場、南側を見る。しかし、何でこの構図なのかと、タイムマシーンがあれば自分に問いたい!

騎兵7連隊覆馬場 (11)
窓の造り、明り取りの状態が分かるだろう。

騎兵7連隊覆馬場 (13)
道路側(北側)の様子 これも、何でこの構図なのか?自分に問いたい。

騎兵7連隊覆馬場 (3)
騎兵捜索第7連隊跡の碑

騎兵7連隊覆馬場 (5)
壁の造りがよく分かるであろう。窓の形は違うが、盛岡にある騎兵第24連隊の物と形状は同じである。

騎兵7連隊覆馬場 (4)
アップで見る。

騎兵第7連隊覆馬場の場所はこちら
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第7師団長官舎門柱

旭川市にある陸上自衛隊の資料館である北鎮記念館には、第7師団長官舎の門柱が移設保存されている。
これも10年近く前の写真であり、現状は分からない。

第7師団長官舎門柱 (1)
状態は極めて悪い。何故、ここまで・・・

北鎮記念館の場所はこちら

陸軍第7師団門柱

北海道旭川市は軍都として栄えた。日清戦争後、対ロシア対策として6個師団が増設された。
それまでが6個師団しかなかったのに、同数の師団を増設するのは、まさに大軍拡であっただろう。
まず最初に、ロシアに近い北海道に屯田兵を基幹として第7師団が増設された。
他の師団と大きく異なる点は、近隣の都市(他県)に連隊を置かず(札幌に歩兵第25連隊を置いたが)、旭川に集中して部隊を配置した。これにより軍都として栄え、現在、旭川が北海道第2の都市となるきっかけとなった。
現在、師団司令部は無くなったが、門柱が残っている。しかし、状態は極めて悪い。
聞いた話では、寒い地方の遺構は亀裂が出来ると、そこに雨水などが染み込み冬場にそれが凍ると膨張し、さらに亀裂が大きくなる。大きくなった亀裂にはさらに多くの水分が入り込み、それが凍ると更に亀裂が大きくなる。これの繰り返しでどんどん状態が悪くなるそうである。
これは平成21年に訪ねた時の写真で、現在は自衛隊の資料館である北鎮記念館に移設保存されています。

第七師団司令部門柱 (1)
門柱の全景

第七師団司令部門柱 (2)
向かって左の門柱 袖門がある。見ての通り、状態は極めて悪い。

第七師団司令部門柱 (3)
向かって右の門柱 すぐに塀になっている。ヒンジが残る。

第七師団司令部門柱 (4)
ソケットが残っている。当時の物だろうか?

第七師団司令部門柱 (6)
背面を見る。

第七師団司令部門柱 (7)
内部がレンガであることが分かる。

第七師団司令部門柱 (8)
左の門柱

撮影時に残されていた陸軍第7師団門柱の場所はこちら

函館重砲連隊司令部門柱

函館市千代台公園にある市民プールの前には、函館重砲連隊司令部の門柱が残っている。
函館重砲連隊は、明治30年、函館要塞砲兵大隊が設立され、千代ヶ岱に移転し、明治34年編成が完了した。
明治40年、要塞砲兵は重砲兵と改められたため、函館要塞砲兵大隊は函館重砲兵大隊と改称された。
さらに昭和11年、函館重砲兵大隊は函館重砲兵連隊と、昭和16年には津軽要塞重砲兵連隊となった。
函館市史デジタル版から抜粋

函館重砲兵連隊門柱 (1)
函館市千代台公園の一角に残っている。なお、当時の名称は千代ヶ岱だったようで、現在は近くの小学校にその名が残されている。

函館重砲兵連隊門柱 (2)
向かって左の門柱

函館重砲兵連隊門柱 (3)
こちらは右。看板が・・・

函館重砲兵連隊門柱 (4)
背後から見る。状態は良い。

函館重砲兵連隊門柱 (5)
詳細は不明だが、門柱は明治期によく見られる形状であり、兵営がここに移った時に建築されたと推測する。

函館重砲兵連隊門柱 (6)
付近にあった何かの支柱? こちらも、詳細不明だが、かなり古い。

函館重砲連隊司令部門柱の場所はこちら

歩兵第25連隊

歩兵第25連隊は、明治29年5月に第7師団増設に伴い、独立歩兵第1大隊として、札幌連隊区司令部内に創設され、その後、月寒に移転した。明治32年、歩兵第25連隊第1大隊と改称し、逐次増設、明治32年に軍旗を親授され、明治35年に編成を完了した。日露戦争では、第3軍隷下として旅順攻略戦に参加、203高地を攻略した。
余談ではあるが、映画「二百三高地」では、敵塁を占領し、連隊旗を振るも、連隊旗を敵兵に奪われ破られてしまうが、再奪取しボロボロの連隊旗を天高く振るシーンが印象深い。
その後は奉天戦に参加し、明治39年3月凱旋帰国した。
大正6年から2年間は満州に、9年から1年間沿海州に派遣された。
その後は、連隊の一部が派遣され戦闘に参加するも、連隊としては派遣されていない。
昭和11年に札幌で行われた、最後の陸軍特別大演習に参加する。
昭和13年に連隊は満州に移駐し、徐州会戦、張鼓峰事件、ノモンハン事件に参加し昭和15年10月帰国、その後に編制替えを行い、樺太に移駐し、以後、樺太警備に当たる。
昭和20年8月9日、ソ連軍が不可侵条約を一方的に破棄して侵攻を開始、終戦後も攻撃を行うために、これを迎撃し、23日に停戦が調停されるまで、戦闘を続けた。
この歩兵第25連隊の遺構は、ほとんど残っていないが、わずかな遺構を紹介する。

歩兵第25連隊
営門の松 明治29年、独立歩兵大隊が置かれ後に歩兵第25連隊に改編された。この兵営正門(営門)前に植えられた2株の松の1つが今に残っている。この門から多くの兵士が出征、凱旋するのを見守った松である。
(豊平区HPより転記)

歩兵第25連隊 (5)
艱を快となす(む?)の石碑 連隊長 山田 虎夫と書かれている。山田連隊長は、明治44年12月から大正5年8月までの長きにわたり連隊長を務めた。(これ以降は、つきさっぷ郷土資料館にて展示されている。)

歩兵第25連隊 (2)
読み難いが、即位式大典記念・・・大正5年3月・・・と彫られている。

歩兵第25連隊 (3)
これは、昭和11年に行われた陸軍特別大演習に昭和天皇が来訪された事を記念し建てられた、記念碑の碑文である。石碑は無くなったが、この部分だけ残ったのであろう。

歩<br />兵第25連隊 (4)
こちらも同じく、陸軍特別大演習に昭和天皇が来られた事を記念した碑の碑文であろう。

歩兵第25連隊営門の松の場所はこちらだったはず・・・
プロフィール

kan

Author:kan
酒とトリ貝刺と、南蛮漬けをこよなく愛し、全国の旧軍遺構を訪ね歩く、自他共に認める正統派の変人です。
変人ですが、「変態!」と言われると烈火の如く怒ります。

紹介する遺構の説明は正確を心がけてますが、間違いや情報があれば、是非とも教えてください。
基本、酒を飲んでブログを書いてます。文章がおかしい時は、かなり酔っていると思ってください。
また、ここで紹介する遺構は訪ねてから紹介するまでに、時間が経っている物や、すでに消失している物も有り、必ずしも現状で無い場合がありますのでご注意ください。
本ブログに掲載されている写真の無断使用は禁止します。
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