岩手牧場内にある建物

まず最初にお断りしておくのは、これが陸軍の遺構なのかは不明で、違う可能性が高いかも知れない事である。
独立行政法人家畜改良センター岩手牧場はもともと、種馬育成所であった。
当時、活兵器と言われた軍馬の品種改良を目的に計画された「馬政第一次計画」に基づき、馬政局、種馬育成所が設置された。
その馬政局であるが、明治43年~大正12年の間は、陸軍省の外局であった。

岩手牧場 (7)
参考にしている当時の地図には、陸軍を示す波線一本「M」が描かれている。(大正5年1月発行)
(著作権の関係上、この大きさでしか掲載できません。)

岩手牧場 (6)さて、この「M」の場所に行くと、門柱がある。表札には「種馬育成所」と書かれている。

岩手牧場 (2)門をくぐると古い建物がある。

岩手牧場上記写真の右側

岩手牧場 (5)建物の全体を見る。

岩手牧場 (4)さらに、その奥にも1棟ある。

岩手牧場では、防疫のために立ち入りが制限されている区域があるので、ご注意されたい。詳しくはこちら
(今回の訪問に当って、事前に問い合わせ問題ない事を確認しています。)

岩手牧場内に残る謎の建物はこちら
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盛岡陸軍墓地

岩手県岩手郡滝沢村滝沢穴口にある穴口公葬地は、陸軍墓地の跡地であり、僅かではあるが遺構が残っている。

陸軍墓地地図
当時の地図(明治44年測図)(著作権の関係上、この大きさでしか掲載できません。)

陸軍墓地 (4)
墓地に入ってすぐに有る、満州事変出動記念植樹の碑。右側面には、昭和9年5月13日、
左側面には歩31出動将校、裏面には何か句が彫られているが、こちらは判読できなかった。
歩兵第31連隊は青森県弘前の部隊であるので、当連隊に所属していた岩手出身将校が植樹した物だろう。

陸軍墓地墓地南東端にある境界石。

陸軍墓地 (2)こちらは南西端にある物だが、文字は反対側に書かれている様で確認できないが、石質は南東端の境界石と同じであることから、境界石と推測する。

さて、盛岡陸軍墓地であるが、後に、現在の岩手県庁舎第二分庁舎の位置に場所が変わり、昭和8年に忠霊塔が建てられている。その忠霊塔は戦後に、久昌寺へ移設されたらしいが、見付けらなかった。

盛岡陸軍墓地の場所はこちら

観武原

青山の兵営の北側は「観武原(みたけがはら)」と呼ばれる演習場だった。
明治41年9月、この地に於いて工兵特別演習が行われ、皇太子殿下(後の大正天皇)が、観閲された。その際に、この地を観武原と名付けられた。(観武原の碑より抜粋)

記念碑 (2)
観武原の碑 観武原と名付けられた経緯が記されている。明治41年12月建立

記念碑
大元帥陛下御野立所聖蹟の碑 
昭和3年に盛岡で陸軍特別大演習が行われ、この場所が御野立所となった。この事を記念し、
軍人勅諭御下賜50周年記念事業として、昭和7年に建立された。

地図
当時の地図(明治44年測図)
(著作権の関係上、この大きさでしか掲載できません。)

記念碑 (3)現在の観武原の様子。開拓された後、住宅地となり当時を偲ぶ物は無い。また、地図中に記載されている「突貫橋」や「攻撃橋」も無かった。唯一の名残は「みたけ」の地名のみであろうか?

盛岡市青山に残る、その他の遺構

青山の兵営周りには、その他の遺構も残っている。しかし、そのほとんどが詳細不明である。

その他青山三丁目自治公民館の前には、境界石がある。

その他 (2)
移設された物だろうが、詳細は不明。

兵営図
当時の地図(明治44年測図) 騎兵営の北側真ん中に、偕行社があった様だ。
(著作権の関係上、この大きさでしか掲載できません。)

青山児童公園内で、4つの「御手植えの碑」を見付けた。(まだある可能性あり)
青山児童公園は、騎兵第23連隊の跡地であったと思われるが、騎兵第23連隊の敷地にのみ、記念樹を御手植えされたとは思えず、いくつかの可能性を推測して見る。
推測1、青山児童公園の場所は偕行社だった。
推測2、各連(大)隊に植樹したが、残っているのが騎兵23連隊のだけである。
推測3、戦後、この位置に移設された。
何ヶ所にも植樹するとは思えず、可能性的には1か3だと思うが、如何だろう?

その他 (4)
大正天皇御手植の碑 裏面には風化して見難いが大正7年と彫られている様だ。

その他 (7)
淳宮殿下御手植の碑 淳宮殿下とは昭和天皇の弟で、後の秩父宮である。こちらも風化して読み難いが、
大正5年と読める。 

その他 (6)
閑院宮殿下御手植の碑 閑院宮とは宮家であり、代々、閑院宮が受け継がれる。こちらも読み難く大正7年と読めるが、6代当主であり陸軍大将であった閑院宮載仁親王の事だと思われる。

その他 (5)
竹田宮殿下御手植の碑 昭和10年(7年?)と読める。こちらも宮家であり、竹田宮恒徳王の事であろう。

その他 (3)こちらはスーパーの裏手にあった、レンガ塀と思われる物。レンガは長手積みであり、軍の物かは不明。また、両端にある門柱の頭か?と思われる物も、形状が珍しく通常の門柱ではないと思われる。偕行社の物か?

工兵第8連隊門柱

国立病院機構 盛岡病院は、工兵第8連隊跡地に建てられている。
工兵第8連隊は、工兵第8大隊として、明治29年、仙台で編成され、明治31年、第8師団新設に伴い、
弘前へ移転。
明治41年、盛岡に転営した。
明治45年4月から朝鮮駐留し、大正3年4月、盛岡に帰還。
その後、シベリア出兵、満州事変に従事。
昭和11年、連隊に昇格。
同年、満洲に移駐のため、盛岡を離れる。
その後の兵営跡地が、どの様に使われたかは不明。
こちらのHPを参考にさせていただいた。

工8 (6)病院敷地内に門柱が保存されている。この一角は、工兵園と名付けられた庭園になっている。

兵営図
当時の地図(明治44年測図) 騎兵第24連隊の南側が兵営であった。
(著作権の関係上、この大きさでしか掲載できません。)

工8 (7)
門柱自体の状態は良いとは言えない。

工8 (2)工兵営跡の碑

工8 (3)工兵第八連隊碑

工8 (4)詳細不明の燈篭。兵営内にあった物か?

工8 (5)工兵園外側の塀。直感では当時の物だと思うが、詳細不明。

工8盛岡病院敷地内や周辺には、桜の大木が多く残る。兵営時代の物だろうか?

工兵第8連隊門柱の場所はこちら
プロフィール

神崎 伸介

Author:神崎 伸介
酒とミル貝刺と、手羽先をこよなく愛し、日々全国の旧軍遺構を訪ね歩く自他共に認める変わり者です。

紹介する遺構の説明は正確を心がけてますが、間違いや情報があれば、是非とも教えてください。
また、ここで紹介する遺構は訪ねてから紹介するまでに、時間が経っている物も有り、必ずしも現状で無い場合がありますのでご注意ください。
本ブログに掲載されている写真の無断使用は禁止します。

Twitter始めました。@Kanreport0726

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