筑波海軍航空基地 地下戦闘指揮所
以前は封鎖されていた地下戦闘指揮所が公開されていた。(現在は非公開。詳しくはこちら)
この地下指揮所は、平地にプールの様な穴を掘りそこにコンクリートを流し込んで造り、上部には土を盛って偽装した。
指揮所は東西に約30mの奥行きで、北と南の2本の通路があり、その間に2つの大部屋とその大部屋を挟むように2つの小部屋がある。また、南側通路の真ん中付近には、1つだけ独立して通信室が通路の南に作られている。
この戦闘指揮所は、司令部庁舎が残ったために使われることは無かったという。
北東の入り口から入る。左側に大部屋に入る入り口が見える。
大部屋に入る2か所の入り口しかない北側通路に対し、南側通路は大部屋2つと小部屋3つ、通信室に入るため6つの入り口がある。

北側から大部屋を見る。南側通路の入り口と、左右にある小部屋へ行くための開口部がある。

南側から見る。こちらには通路からの入り口しかない。

これは電纜を通した穴だろうか?

隣の小部屋に行くための開口部

小部屋の様子

北西の出入り口は塞がれている。

浸水対策だろうか?通路より一段高くなっている。

奥の小部屋には千羽鶴が置かれてる。

南側の通路。右には各部屋への入り口が、左には通信室への入り口がある。

通信室の内部。機器の台が残っている。

南東の出入り口を外から見る。
この地下指揮所は、平地にプールの様な穴を掘りそこにコンクリートを流し込んで造り、上部には土を盛って偽装した。
指揮所は東西に約30mの奥行きで、北と南の2本の通路があり、その間に2つの大部屋とその大部屋を挟むように2つの小部屋がある。また、南側通路の真ん中付近には、1つだけ独立して通信室が通路の南に作られている。
この戦闘指揮所は、司令部庁舎が残ったために使われることは無かったという。
北東の入り口から入る。左側に大部屋に入る入り口が見える。
大部屋に入る2か所の入り口しかない北側通路に対し、南側通路は大部屋2つと小部屋3つ、通信室に入るため6つの入り口がある。

北側から大部屋を見る。南側通路の入り口と、左右にある小部屋へ行くための開口部がある。

南側から見る。こちらには通路からの入り口しかない。

これは電纜を通した穴だろうか?

隣の小部屋に行くための開口部

小部屋の様子

北西の出入り口は塞がれている。

浸水対策だろうか?通路より一段高くなっている。

奥の小部屋には千羽鶴が置かれてる。

南側の通路。右には各部屋への入り口が、左には通信室への入り口がある。

通信室の内部。機器の台が残っている。

南東の出入り口を外から見る。
筑波海軍航空基地再訪
以前に探訪した筑波海軍航空基地を再び訪ねた。
映画「永遠の0」のロケで、筑波海軍航空隊本部庁舎が使用された事を記念して、筑波海軍航空隊記念館として公開されている。
詳しくはこちら

これは、裏門と言われている。

門柱のアップ。

供養塔 昭和13年建立。訓練中に殉職された方の供養のために建てられた。元々の位置は不明。

本部庁舎の内部 入り口の正面にある階段

1階通路。パイプなどは後付けかもしれないが、ほぼ当時のままの光景であろう。

建物の正面向かって右端にある階段。との時代の会談ではよく見られる形である。

階段と、踊り場の窓を見る。

階段を上から見る。

部屋の様子。どこまでがオリジナルかは不明。

司令室

映画「永遠の0」のロケでは、病院として使われた。そのセットを展示してある。

記念館内には数多くの資料や機材が展示されている。

引き揚げられたであろうエンジンや、

座席や風防もある。

これはロケット戦闘機「秋水」の燃料を保管する陶器製のタンク 金属では腐食するために陶器が使われたようであり、陸軍と海軍では、違うマークが書かれている。
映画「永遠の0」のロケで、筑波海軍航空隊本部庁舎が使用された事を記念して、筑波海軍航空隊記念館として公開されている。
詳しくはこちら

これは、裏門と言われている。

門柱のアップ。

供養塔 昭和13年建立。訓練中に殉職された方の供養のために建てられた。元々の位置は不明。

本部庁舎の内部 入り口の正面にある階段

1階通路。パイプなどは後付けかもしれないが、ほぼ当時のままの光景であろう。

建物の正面向かって右端にある階段。との時代の会談ではよく見られる形である。

階段と、踊り場の窓を見る。

階段を上から見る。

部屋の様子。どこまでがオリジナルかは不明。

司令室

映画「永遠の0」のロケでは、病院として使われた。そのセットを展示してある。

記念館内には数多くの資料や機材が展示されている。

引き揚げられたであろうエンジンや、

座席や風防もある。

これはロケット戦闘機「秋水」の燃料を保管する陶器製のタンク 金属では腐食するために陶器が使われたようであり、陸軍と海軍では、違うマークが書かれている。
鉾田陸軍飛行学校監的壕
鉾田陸軍飛行学校は、昭和15年12月に開設され、軽爆、襲撃飛行隊幹部の教育訓練並びに研究が行われていたが、戦争末期の昭和19年6月に鉾田教導飛行師団となり、陸軍初の特攻隊の一つである「万朶隊」が編成された。
九九双軽を使用した万朶隊に対し、浜松では四式重爆「飛龍」を使用した「富嶽隊」が編成された。この両隊の事は、高木 俊朗著「陸軍特別攻撃隊」に詳しく書かれている。
現在、鉾田飛行場に関する遺構はほとんど残っておらず、飛行場の南3km付近に爆撃訓練の監的壕と思われる遺構のみが確認されている。

正面から見る。

斜め前方から見る。

監的壕の入り口。爆風が内部に入らないための爆風避けがある。

反対側から見る。

入り口は、かなり狭く作られている。

内部の様子

監視窓のアップ とても丁寧に作られている。

営門があった付近に建てられている鉾田陸軍飛行学校顕彰碑
九九双軽を使用した万朶隊に対し、浜松では四式重爆「飛龍」を使用した「富嶽隊」が編成された。この両隊の事は、高木 俊朗著「陸軍特別攻撃隊」に詳しく書かれている。
現在、鉾田飛行場に関する遺構はほとんど残っておらず、飛行場の南3km付近に爆撃訓練の監的壕と思われる遺構のみが確認されている。

正面から見る。

斜め前方から見る。

監的壕の入り口。爆風が内部に入らないための爆風避けがある。

反対側から見る。

入り口は、かなり狭く作られている。

内部の様子

監視窓のアップ とても丁寧に作られている。

営門があった付近に建てられている鉾田陸軍飛行学校顕彰碑