松本陸軍墓地
護国神社の北にある美須々公園には戦後、陸軍墓地が移転して納骨堂に遺骨が納められている。

途中で見つけた忠魂碑 東郷平八郎の揮毫である。
納骨堂の全景。もちろん、この納骨堂は戦後の物だろう。
納骨堂のアップ

この燈篭は昭和11年9月、歩兵第50連隊によって建立された。
燈篭と合葬碑 この燈篭は昭和9年4月、愛国婦人会松本市分会によって建立された。この燈篭と合葬碑は戦後、移転した時に組み合わされた物かもしれない。

合葬碑 こちらは昭和19年4月建立であるが、金沢師団経理部長の揮毫の様だが、
何故に金沢師団の経理部長なのだろうか?
旧陸軍墓地はここに有った様だが、付近に遺構は見付けられなかった。
美須々公園の場所はこちら
旧陸軍墓地の場所はこの付近だったらしい

途中で見つけた忠魂碑 東郷平八郎の揮毫である。



この燈篭は昭和11年9月、歩兵第50連隊によって建立された。


合葬碑 こちらは昭和19年4月建立であるが、金沢師団経理部長の揮毫の様だが、
何故に金沢師団の経理部長なのだろうか?

美須々公園の場所はこちら
旧陸軍墓地の場所はこの付近だったらしい
松本憲兵隊長官舎と演武場
松本市旭町には、松本憲兵隊の演武場と憲兵隊長官舎が残っている。
所有者である会計事務所の許可を得て立ち入り撮影しています。無断、立ち入りはしない様にしてください。
演武場 会計事務所として使われている。
ガラスも当時のままと思われる。
会計事務所の方の御厚意で、内部を見させていただいた。

ここに、銃剣術用の木銃を架けていたそうだ。
これは、馬を繋いでいた柱と言われている。
憲兵隊長官舎。外観は当時のままであろう。
この塀も当時の物と言われている。
松本憲兵隊長官舎と演武場の場所はこちら
所有者である会計事務所の許可を得て立ち入り撮影しています。無断、立ち入りはしない様にしてください。




ここに、銃剣術用の木銃を架けていたそうだ。



松本憲兵隊長官舎と演武場の場所はこちら
歩兵第50連隊長官舎
信州大学付属松本中学校の正面にある元原公民館は、歩兵第50連隊長官舎であった。
連隊長官舎の全景
入口は改装されているが、外観は変わっていないと思われる。
反対側には縁側がある。
池の跡も残っているが、官舎当時の物かは不明
歩兵第50連隊長官舎の場所はこちら




歩兵第50連隊長官舎の場所はこちら
歩兵第50連隊
長野県松本市には、かつて歩兵第50連隊が兵営を置いていた。
歩兵第50連隊は日露戦争の最中である、明治38年3月に連隊本部と第2大隊は仙台、第1大隊は東京、第3大隊が村松で編成され4月15日、仙台宮城野練兵場で軍旗が親授された。
連隊は7月に青森港を出港し樺太に上陸、転戦した後、凱旋帰国するも、同年9月には台湾守備に、翌年4月には朝鮮の守備を命じられ2年後の明治41年11月に帰国、松本に兵営を置いた。
しかし、5年後の大正2年に満州駐剳が命じられる。大正8年から10年にかけてシベリア出兵に参加後、帰国する。
昭和2年、再び満州駐剳が命じられ、昭和3年には山東出兵に派遣される。昭和4年松本に戻るも、昭和7年、満州事変に出動、数々の戦闘に従事し昭和9年5月下旬に帰国、昭和11年に起った2・26事件では東京で警備に就く。昭和12年7月、日中戦争が勃発すると動員下令され、大陸に出征する。各地で戦闘、警備を行い、昭和14年末に松本に帰還する。
昭和16年4月、編成替えにより満州に移駐し、関東軍隷下に入る。
昭和19年2月、サイパン守備の命を受け出発するが、途中、テニアン島を守備する予定だった歩兵第18連隊の乗った埼戸丸が米潜水艦の攻撃を受けて沈没、壊滅状態となったためテニアン島に上陸、以後、テニアン守備の任に就く。
7月24日、米軍がテニアン島に上陸を開始。圧倒的優勢な米軍に対し、勇敢に迎え撃つも、徐々に制圧され、8月3日、最後の突撃を敢行し玉砕する。
ただ、連隊の一部をロタ島に派出しており、その人員は無事帰国している。
(「わが連隊」ノーベル書房より抜粋)
歩兵第50連隊兵営跡地は、信州大学になっており、糧秣庫と言われるレンガ建築が残っている。問い合わせたところ、入口で守衛さんに言えば見学は自由との事だった。
入口ドアや窓はリフォームされているが、外観に大きな違いは無いと思う。
通用門と思われる門柱が、短くされて移設保存されているが、何もこんなに短くしなくても・・・
建物に囲まれていて全体を写す事は難しい。
こちらに出入り口がある。ネットなどで調べると、この糧秣庫が歩兵第50連隊の唯一残る遺構と紹介されているが・・・
近くにもレンガ建てが残っている。こちらはペンキが塗られているが、
反対から見ると、イギリス積みである事が判る。戦後にレンガで建てたとは思えないので、これも遺構であろう。
こちらも遺構かと思ったが、戦後すぐの航空写真に写って無いので違うようだ。

護国神社の向かいには、旧歩兵第50連隊跡の碑がある。
陸上自衛隊松本駐屯地には、営門が移設保存されているが、こちらも短くなっている。何だかな~
大正初期の営門 (写真提供:tiger氏)

「陸軍用地」の境界石もある。
歩兵第50連隊糧秣庫の場所はこちら
歩兵第50連隊は日露戦争の最中である、明治38年3月に連隊本部と第2大隊は仙台、第1大隊は東京、第3大隊が村松で編成され4月15日、仙台宮城野練兵場で軍旗が親授された。
連隊は7月に青森港を出港し樺太に上陸、転戦した後、凱旋帰国するも、同年9月には台湾守備に、翌年4月には朝鮮の守備を命じられ2年後の明治41年11月に帰国、松本に兵営を置いた。
しかし、5年後の大正2年に満州駐剳が命じられる。大正8年から10年にかけてシベリア出兵に参加後、帰国する。
昭和2年、再び満州駐剳が命じられ、昭和3年には山東出兵に派遣される。昭和4年松本に戻るも、昭和7年、満州事変に出動、数々の戦闘に従事し昭和9年5月下旬に帰国、昭和11年に起った2・26事件では東京で警備に就く。昭和12年7月、日中戦争が勃発すると動員下令され、大陸に出征する。各地で戦闘、警備を行い、昭和14年末に松本に帰還する。
昭和16年4月、編成替えにより満州に移駐し、関東軍隷下に入る。
昭和19年2月、サイパン守備の命を受け出発するが、途中、テニアン島を守備する予定だった歩兵第18連隊の乗った埼戸丸が米潜水艦の攻撃を受けて沈没、壊滅状態となったためテニアン島に上陸、以後、テニアン守備の任に就く。
7月24日、米軍がテニアン島に上陸を開始。圧倒的優勢な米軍に対し、勇敢に迎え撃つも、徐々に制圧され、8月3日、最後の突撃を敢行し玉砕する。
ただ、連隊の一部をロタ島に派出しており、その人員は無事帰国している。
(「わが連隊」ノーベル書房より抜粋)









護国神社の向かいには、旧歩兵第50連隊跡の碑がある。



「陸軍用地」の境界石もある。
歩兵第50連隊糧秣庫の場所はこちら