東京第二陸軍造兵廠岩鼻製造所 その3 製造所周辺

最後は、岩鼻製造所の敷地周辺に残る遺構を紹介する。

岩鼻製造所 (11)これが当時の正門だろうか?

岩鼻製造所 (13)さらに100m程、南にも門があり

岩鼻製造所 (15)
共栄門と書かれている。従業員用の通用門か?

岩鼻製造所 (17)境界塀を裏から見る。

岩鼻製造所 (8)こちらも、通用門であろう。(この付近

岩鼻製造所 (10)こちらも当時の物だろうが、板などが張られていたのかは不明。

岩鼻製造所 (12)こちらも通用門だろう。

岩鼻製造所陸軍の文字が確認できる境界石。他の境界石と同様に陸軍用地と彫られているのだろう。(この付近のフェンス沿い)

岩鼻製造所 (3)
こちらは、陸軍用 まで確認できる。

岩鼻製造所 (5)裏面に彫られているのは、38だろうか?

岩鼻製造所 (7)
高崎量子応用研究所入口付近にも、境界石がある。

岩鼻製造所 (9)
この境界石には、何故かピンクの鉢巻きが・・・
酔っ払いサラリーマン?いやいや、今どき、こんな酔っ払いいないし・・・

岩鼻製造所 (16)果樹園に抜かれて捨てられていた境界石。地上よりも、地中に埋まっている方が多いのが判る。

さて、この岩鼻製造所は、日本初のダイナマイト製造地でもあり、今は無いが引き込み線もあった様なので、まだまだ多くの遺構が残っている可能性もある。
御存知の方は、是非とも御教授いただきたい。
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東京第二陸軍造兵廠岩鼻製造所 その2 日本化薬内

日本化薬株式会社内に残る遺構を紹介する。

岩鼻製造所 (19)正門前にあるのは、将校集会所だと思われる。
その後の調べにより、将校集会所でない事が判明、製造所の庁舎と推測します。

岩鼻製造所 (20)ここからだと、車寄せが見える。

岩鼻製造所 (2)これも造兵廠時代の物だろう。

岩鼻製造所 (4)こちらは、壁の感じから昭和初期の物だろうか?(何の根拠も無し)

岩鼻製造所 (6)これ以外にも、遺構と思われる建物が有った。

岩鼻製造所 (18)これは日本化薬社宅の敷地内に有った建物。関係者以外立ち入り禁止だったので、外から撮ったが、造りから所長の官舎か?
こちらが、将校集会所でした。

東京第二陸軍造兵廠岩鼻製造所 その1 群馬の森

群馬県高崎市の東部にある公園「群馬の森」の一帯は、かつては陸軍の火薬製造所があった。その歴史は古く、明治15年11月、黒色火薬の製造を開始している。当時陸軍には東京の板橋に火薬製造所があったが、増産が必要となり、建設地を探した結果、岩鼻が選ばれた。その理由としては、烏川と井野川に沿って舟運の便がよく、水車の動力も得やすいことが挙げられる。
最初は「東京砲兵工廠岩鼻火薬製造所」と称していたが、大正12年4月に「陸軍造兵廠火工廠岩鼻火薬製造所」となり、昭和15年4月には「東京第二陸軍造兵廠岩鼻製造所」と変わっている。
この間、明治38年には日本で初めてダイナマイト製造を開始し、従来の黒色火薬と併せて、軍用火薬、民間用の産業火薬の生産、供給を行ってきた。
(高崎市HP たかさき100年「第22回岩鼻火薬製造所と軽便鉄道」から引用)

東京第二陸軍造兵廠岩鼻製造所跡地は、群馬の森だけでなく、日本化薬株式会社高崎工場、日本原子力研究所高崎研究所となっている。

群馬の森群馬の森から、日本化薬を見る。今回、日本化薬構内の見学を申請したが、見学は無理との事だったが、群馬の森や周辺道路から構内を自由に見ても良いとの答えだったので、そうさせていただいた。
橋や奥の建物は、東京第二陸軍造兵廠岩鼻製造所当時の物であろう。

群馬の森 (2)塀越しに写した遺構と思われる建物。

群馬の森 (3)土塁に造られた交通用のトンネル。

群馬の森 (4)群馬の森と日本化薬の境界付近にある建物。残念ながら、立ち入り禁止になっていて、これ以上は近づけない。

群馬の森 (6)こちらも立ち入り禁止になっていて、これ以上、近づく事が出来ない。

群馬の森 (5)アップの画像。

群馬の森 (8)こちらは、ここで製造された火薬が、炸薬として使われた時の弾道を計測する際、風などの影響を無くすためのトンネルだと思われる。

群馬の森 (7)同様のトンネルが板橋にも残っている。

群馬の森 (10)今回、群馬の森内で見つけた唯一の建物。

群馬の森 (9)その脇には、コンクリート製のトンネルがあるので、弾道計測関連の建物だろうか?

群馬の森 (11)群馬の森内は、多くの土塁で区切られていて、見通しは良くない。見逃している遺構があるのかもしれない。
群馬の森の場所はこちら

高崎陸軍墓地

群馬県高崎市高崎城址の南にある龍廣寺内には、陸軍墓地が残っている。
明治5年、廃藩置県で廃城となった高崎城は陸軍省の所管となり、翌年に東京鎮台高崎分営が置かれた。
西南戦争の後、軍備拡充のため、明治16年には歩兵第15連隊が創設され、その兵営となった。

高崎陸軍墓地 (3)お寺の墓地の一角(一番奥)が、陸軍墓地になっている。

高崎陸軍墓地 (8)忠霊碑 左から、明治二十七八年戦役、明治三十七八年戦役戦死病歿者之碑(明治39年7月建立)、満州事変忠霊之碑(昭和8年2月建立)、支那事変、大東亜戦争忠霊碑(戦後建立)


高崎陸軍墓地 (4)向かって左側には古い墓石が残っている。

高崎陸軍墓地 (6)明治8年に建てられた墓もあり、その頃は名前しか彫られていない様である。それ以外にも、階級でなく兵卒や銃卒などと彫られていたり、呼称の変化が判る。

高崎陸軍墓地 (5)生兵の墓。生兵とは明治7年から20年にあった制度で、徴兵されて6ヶ月間の訓練期間中は生兵と呼ばれ、その後に兵士として勤務可能と認められれば二等卒の階級が与えられた。
生兵の墓を見たのは真田山(大阪)陸軍墓地以来である。

高崎陸軍墓地向かって右の墓石。こちらは満州事変での墓石が多く見られた。

高崎陸軍墓地 (2)陸軍墓地の全景

高崎陸軍墓地 (7)高崎陸軍墓地には日露戦争で捕虜となり、高崎に収容されていたロシア兵のうち、この地で命を落とした3人のロシア兵の墓がある。

高崎陸軍墓地の場所はこちら
プロフィール

神崎 伸介

Author:神崎 伸介
酒とナマコ酢と、ニシンの塩焼きをこよなく愛し、日々全国の旧軍遺構を訪ね歩く橋本環奈が大好きな正統派変人です。

紹介する遺構の説明は正確を心がけてますが、間違いや情報があれば、是非とも教えてください。
また、ここで紹介する遺構は訪ねてから紹介するまでに、時間が経っている物も有り、必ずしも現状で無い場合がありますのでご注意ください。
本ブログに掲載されている写真の無断使用は禁止します。

Twitter始めました。@Kanreport0726

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