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歩兵第49連隊

山梨大学附属中学校内には歩兵第49連隊の糧秣庫が残っている。
歩兵第49連隊は、日露戦争中の明治38年3月に、戦力増強のために新設された。
日露戦争後、習志野に仮兵舎を置いていたが、明治42年4月に甲府に転営、衛戍地とした。
昭和11年2月に満州へ移駐、匪賊討伐に従事する。
昭和19年3月第3大隊はグァム島に転進するも、その後の戦闘でほぼ全滅。
昭和19年10月、連隊はフィリピンのレイテ島に到着するも、昭和20年1月にセブ島に転進できたのは208名のみで、終戦を迎えられたのは九十余名であった。(わが連隊、ノーベル書房より抜粋)

甲府 (6)糧秣庫 明治41年頃に建築され、現在は山梨大学赤レンガ館と名付けられ、歴史史料室となっている。

甲府 (5)平成10年、大雪のため一部が破損したのを契機に保存の機運が高まり、耐震工事等をしたうえ改修された。
(パンフレットより)

甲府 (2)外観は大きく変わっていないと思われる。

甲府(5)兵営の南西端付近に残る水路。写真では見難いが、水路右手には石積みが残っている。
兵営と民地を分ける水路だったと推測する。

甲府
甲府連隊区司令部跡地に残る「偕楽園」の碑。
甲府連隊区司令部と甲府陸軍病院の跡地は現在、国立甲府病院となっており、この碑は明治44年に建立された。
こちらのブログを見ると、陸軍病院の北東にあったのを、ここに移設した様である。

甲府駅の北方、護国神社近くにある、つつじが崎霊園は陸軍墓地の有った場所であるが、現在は広大な霊園となっており、どこが陸軍墓地の用地だったか特定できなかった。なお、霊園内にはレイテ島戦死者の慰霊碑と、将校の個人墓が3基ある。また、射撃場は運動公園、練兵場は住宅地になっており、遺構は見付けられなかった。

歩兵第49連隊糧秣庫の場所はこちら
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大月防空監視哨

大月駅近く、大月中央病院の裏山には防空監視哨跡が残っている。
昭和17年、本土初空襲後に防空監視隊が組織され、大月監視隊本部は昭和18年暮れに移転してきた。
監視哨は、哨長と監視員9名で編成され、3交代で監視にあたっていた。
昼間は2名で監視し、夜間は1名が監視、もう1名が聴音監視を行っていた。(案内板より抜粋)

大月大月中央病院の裏に登り口がある。古い案内には「むすび山」、新しい案内には「おむすび山」となっている。大月観光協会におむすび山と問い合わせたら「おむすび山じゃなく、むすび山」と強く訂正された。

大月 (5)舗装された道路は民家の前で終わっているが、そのまま民家の前から登って行くと、細い山道になる。

大月 (4)登山口の案内から10分程度で山頂に着く。そこには聴音壕の竪穴があるが予想以上に小さく、直径4m、深さ1.5m程である。
さて、防空監視哨であるが、甲府、大月、南部に監視隊本部が置かれ、それぞれ15、10、7の監視哨があり、大月監視隊の傘下には、大月、丹波、西原、上野原、七保、笹子、谷村、吉田、精進、河口の監視哨があった様だが、詳細は不明である。
この監視哨は大月駅から歩いても1時間で行って帰れる。しかし、冬場以外の訪問はお勧めしない。

大月防空監視哨の登り口はこちら
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kan

Author:kan
酒とナマコ酢と、ミル貝刺をこよなく愛し、全国の旧軍遺構を訪ね歩く、自他共に認める正統派の変人です。
変人ですが、「変態!」と言われると烈火の如く怒ります。
腰はガラスの腰と言われ、定期的に壊れます!

紹介する遺構の説明は正確を心がけてますが、間違いや情報があれば、是非とも教えてください。
基本、酒を飲んでブログを書いてます。誤字や文章がおかしい時は、かなり酔っていると思ってください。
また、ここで紹介する遺構は訪ねてから紹介するまでに、時間が経っている物や、すでに消失している物も有り、必ずしも現状で無い場合がありますのでご注意ください。
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