名古屋海軍航空基地 地下戦闘指揮所

 いきなりだが、試験を受ける際、「大丈夫、大丈夫!あんな試験、勉強しなくても受かるよ!すごく簡単だから。」と言われていて舐めていたら、試験問題を見た瞬間「えっ!!!」と思ったり、「かなり難しいから、相当勉強しないと受からないよ!」と言われ、一生懸命勉強したら、「あれっ、過去問だけじゃん!」って経験はないだろうか?

 映画「八甲田山」をご覧になった方はご存じだろう。青森第5連隊の将兵が、事前訓練が平穏だったため、雪中行軍が温泉に行くための訓練と思われていて、宴会を楽しみにしていたが遭難してしまったことを!

あっ、前置きが長くなってしまいました・・・
実はこの指揮所は、ほぼ場所も特定できており、すぐに判ると思い込んでいた。
事前情報でも簡単な場所にあるとのことだったが、現地に行くと、想像以上の竹藪でまさかの退却・・・
しかも、場所が特定できず・・・帰りの時間も迫ってくる・・・
そこで、「大日本者神國也」の盡忠報國さんに助けてTELをし、無事、たどり着けた。基本、他力本願のkanでございます・・・
盡忠報國さん、ありがとうございました。
教訓、事前準備はしっかりと!

名古屋空指揮所 (1)
教えていただいた通りに進むと、発見!

名古屋空指揮所 (9)
こちら側には2室

名古屋空指揮所 (5)
向かいに1室ある。
この上部にある窪みに角材を入れ、その上に板を敷き、その上に土を盛るなどして隠匿していたと推測する。

名古屋空指揮所 (3)
一番最初に見えた室。

名古屋空指揮所 (2)
入口は四角であるが、内部は半円形である。

名古屋空指揮所 (4)
奥の室。

名古屋空追加
こちらも半円形であるが、奥行きがない。

名古屋空指揮所 (6)
向かいの部屋。

名古屋空指揮所 (8)
当時の鉄パイプだろうか?

名古屋空指揮所 (7)
内部は四角い箱型の部屋になっている。発電機室かと思ったが、指揮所と近すぎる。これでは排気や騒音など不具合がありそうである。

名古屋海軍航空基地 地下戦闘指揮所アクセスは、この付近からフェンスに沿って斜面を下り、2つ目の窪みにある。
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名古屋海軍航空基地

愛知県豊田市には、海軍名古屋航空基地があった。
海軍名古屋航空基地は昭和14年に愛知時計の飛行場として建設されたが、昭和15年に海軍が買収した。
昭和16年にはし霞ヶ浦航空隊分遣隊が移住し、昭和17年4月に分遣隊は名古屋海軍航空隊として独立し、練習航空隊として操縦訓練を担当した。
昭和20年、この地で特別攻撃隊「草薙隊」が編成され、沖縄に出撃した。
現在は少年院や、住宅地になってしまったが僅かな遺構が残っている。

名古屋空その1 (8)
豊田市浄水場の北に門柱が片方だけ残っている。

名古屋空その1 (6)
形状はモダンと言うか、お洒落と言うか、軍隊の門としては変わった作りである。

名古屋空その1 (5)
表札を掛けていたフックが残っている。

名古屋空その1 (7)
後方から見る。

名古屋空その1 (1)
名古屋少年院の南にある開豊神社には、草薙隊之碑が建てられている。

名古屋空その1 (9)
碑のアップ
大切に管理されているのが判る。英霊も御喜びだろう!英霊に申し上げたい、「日本は平和です。安らかにお眠りくださいと。」

名古屋空その1 (2)
五省の碑

名古屋空その1 (3)
移設されたと思われる海軍の消火栓

名古屋空その1 (4)
消火栓と錨。錨については詳細不明。海軍の象徴として置かれているだけで、海軍とは関係ないと思われる。

名古屋海軍航空基地門柱の場所はこちら
草薙隊之碑の場所はこちら

陸軍清州飛行場作戦室

愛知県あま市石作には陸軍清洲飛行場の作戦室とも、戦闘指揮所とも言われる遺構が残っている。
清洲飛行場は、昭和19年3月に建設を発表、半年後に完成し10ヵ月で使命を終えた短命の飛行場である。
ただ、当時の新鋭飛行機であった五式戦闘機を装備した飛行第5戦隊が駐留したように、中部日本の防空の拠点となったようである。
終戦後は農地となったため、遺構は今回紹介する作戦室(戦闘指揮所)以外の遺構は残っていないようである。

清州飛行場 (1)
作戦室(戦闘指揮所)の遺構

清州飛行場 (3)
天井部分は抜け落ちてしまっている。

清州飛行場 (4)
コンクリートの厚さが判るだろう。

清州飛行場 (5)
出入り口

清州飛行場 (6)
北西側から見る。

清州飛行場 (7)
北側から見る。

清州飛行場 (2)
付近に残る、何かの基礎部。

清州飛行場戦闘指揮所の場所はこちら

歩兵第6連隊 兵舎

愛知県犬山市にある明治村には、歩兵第6連隊の兵舎が移設展示されている。
歩兵第6連隊は、明治7年に軍旗を親授された歩兵連隊の中でも最古参の連隊の1つである。

明治4年、東京鎮台第3分営が置かれ、藩兵などを総括して第6番大隊として名古屋城内に駐屯した。
明治6年、名古屋鎮台が創設され、その指揮下に入る。
明治7年3月、2個大隊をもって歩兵第6連隊が編成された。
以後、明治10年に西南の役に出動し、明治27年には日清戦争に出征する。
明治37年、日露戦争に出征し、遼陽会戦、沙河会戦、奉天会戦に参加。幾多の武勲を立て凱旋する。
大正7年8月、シベリアに派兵され、10月に帰国。
昭和3年5月、済南事変により出動、山東省で警備にあたり、1年後の昭和4年5月に帰還する。
昭和9年4月、満州に派遣され2年間警備、教育訓練に従事し昭和11年4月に帰還する。
昭和12年、日中戦争が勃発すると8月に名古屋港より出港、呉淞に敵前上陸を敢行する。以後、南京、徐州、武漢、宜昌、漢水作戦に従事し、太平洋戦争では中支、南支を転戦中に終戦を迎える。
(わが連隊:ノーベル書房から抜粋)

明治村に移設されているのは、明治6年、歩兵第6連隊が創設された際、名古屋城二の丸に新築された第10中隊の兵舎で、元は50mを超える長い建物であったが、移築に際し約2/3に切り縮められている。
創建当時の窓は現在の約半数であったが、のちに室内を明るくするため増設されている。また、内務班、中隊長室、下士官室等が当時の姿に復原されている。(明治村HP、案内板から抜粋)

明治村歩兵6連隊兵舎 (1)
兵舎の全景。移設場所の関係で正面から撮ることは難しい。

明治村歩兵6連隊兵舎 (2)
反対側から見る。

明治村歩兵6連隊兵舎 (3)
正面アップ

明治村歩兵6連隊兵舎 (4)
入り口部分

明治村歩兵6連隊兵舎 (5)
反対側から見る。

明治村歩兵6連隊兵舎 (6)
居住区

明治村歩兵6連隊兵舎 (7)
見習い士官室

明治村歩兵6連隊兵舎 (8)
中隊事務室

明治村歩兵6連隊兵舎 (9)
中隊長室。中隊長室、中隊事務室、見習い士官室は2階にあったが、現在は1階に再現されている。

明治村歩兵6連隊兵舎 (10)
下士官室

明治村歩兵6連隊兵舎 (11)
1階廊下。2階は改装されていて遊戯場になっているのは残念だが、保存するためには仕方ないのだろう。逆に、保存されていることを感謝しなければならない。

明治村歩兵6連隊兵舎 (14)
階段を上がった2階部分

明治村歩兵6連隊兵舎 (12)
2階窓のアップ

明治村歩兵6連隊兵舎 (13)
当時のガラスが残っており、写真では分かり難いが実際に見ると波打っている。

明治村歩兵6連隊兵舎 (16)
反対側を見る。同じ作りである。こちらが正面?

明治村歩兵6連隊兵舎 (15)
側面を見る。

明治村歩兵6連隊兵舎 (17)
反対側

近衛局

愛知県犬山市にある、博物館明治村には、近衛局本部付属舎が移設保存されている。
この建物は宮城警護のために設置された皇宮警察の庁舎の一部で、明治20年、坂下門内に着工されたが、建設中に用途を近衛局(明治22年に近衛師団と改称)本部に変更して翌年に完成した。その後、師団本部は移転したため、皇宮警察本部がここへ移り、昭和42年まで坂下護衛所として使用した。(明治村よりHP抜粋)
元々は東京にあったが、カテゴリは現在置かれている愛知県とした。

近衛局 (4)
正面から見る。

近衛局 (1)
右斜め前方からみる。

近衛局 (2)
左斜め前方から。

近衛局 (3)
左側面の様子

博物館明治村のHPはこちら
プロフィール

神崎 伸介

Author:神崎 伸介
酒とナマコ酢と、焼き魚(特に、タチウオ、エボダイ、ニシン)をこよなく愛し、日々全国の旧軍遺構を訪ね歩く自他共に認める、正統派の変人です。


紹介する遺構の説明は正確を心がけてますが、間違いや情報があれば、是非とも教えてください。
また、ここで紹介する遺構は訪ねてから紹介するまでに、時間が経っている物も有り、必ずしも現状で無い場合がありますのでご注意ください。
本ブログに掲載されている写真の無断使用は禁止します。

Twitter始めました。@Kanreport0726

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