陸軍大谷射撃場

京阪電鉄大谷駅付近には、射撃場があった。実はこの射撃場について情報が無く、陸軍の射撃場は皇子山公園付近にあったので、海軍の物か?と思っていた。

大谷地図
Otani Firing Rangeと記されている。

大谷射撃場 (4)現在の射撃場跡地の様子。

大谷射撃場 (6)
情報も無いので、何も残っていないと期待していなかったが、何と陸軍の境界石が有った!

大谷射撃場 (8)
さて、この射撃場は最初に造られた皇子山の射撃場が手狭になったか、付近に民家が多くなり不具合が多くなり新たに造られた物かと思ったが、アジア歴史資料センターで検索してみると、明治9年には大津大谷射的場と記載されており、第9連隊創設当時から有ったと思われる。

大谷射撃場 (10)さらにこちらにも境界石がある。

大谷射撃場 (2)
写真の様に、「山」の境界石と「陸」の境界石はほとんど同じ場所にある。

大谷射撃場 (5)児童公園の周辺斜面には、境界石が多数残っている。

大谷射撃場 (7)「山」の境界石を示すピンクのリボンが有るところを探せば、「陸」もある感じである。
(リボンの無い場所に「陸」だけもあるので、ご注意を)

大谷射撃場 (9)「陸」の字体や境界石の形状が違ったりしているので、設置時期に違いが有ると思われる。

大谷射撃場これは詳細不明であるが、陸軍の境界石だと推測する。

大谷射撃場 (3)
西側の境界石。付近は住宅地になっており、境界と思われるところを全ては確認できなかったが、相当数の境界石が残っているのでは?
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歩兵第9連隊

歩兵第9連隊は、よく京都9連隊と言われるが、その輝かしい歴史の多くは大津を衛戍地としていた。

明治7年6月に大阪で創設、同年12月に軍旗を親授され、翌明治8年3月に大津へ移駐し、以後、西南戦争、日清戦争、台湾土匪討伐、日露戦争、シベリア出兵、満州守備などの経歴を経て、大正14年に京都伏見へ移駐した。
ただ、郷土の誇りでもあり、また経済的理由でも連隊の移駐には反対も多く、第3大隊は引き続き大津に残る事となった。
その歴史ある歩兵第9連隊の遺構は皆無と言われているが、詳細不明ながら、僅かに境界石等を見付けたので紹介する。

歩9兵営跡地の多くは、大津商業高校となっている。

歩9 (3)大津市歴史博物館近くにある、歩兵第九聯隊之跡碑

歩9 (5)
碑の近くにある石柱。詳細不明だが営内にあった物か?

歩9 (7)こちらも詳細不明の燈篭の一部と思われる物。将校集会所の庭園の物か?

歩9 (9)
階段を上がるとある「陸軍地」の境界石陸軍墓地にある物と同じである。(ただし、どこにあった境界石かは不明)

歩9 (11)境界石近くにある「若鷲の碑」 大津陸軍飛行兵学校の記念碑。

歩9 (12)兵営前駅はホームのみが残っている。

歩9 (14)
三井寺の裏山には、西南戦争の祀念碑がある。明治13年5月24日竣成(?)と彫られている。
さて、この祀念碑の場所は分かり難い。土地勘のある人なら山道を通って行けるだろうが、私は三井寺の中を通って訪ねた。(この際には、拝観料500円が必要となる。)
大津そろばんの碑等、記念碑がある一角があるのだが、そこから更に山を登る事5~10分のところに開けた場所があり、そこにあるのだが、非常に分かり難い。

大津火薬庫
陸軍墓地の南には火薬庫の記載が有る。何の情報も無いので何も残ってないだろうが、せっかく来たので訪ねてみる。

歩9 (10)火薬庫に向かう道には狸の石像と、その後ろには道標があった。形状的に違うだろうが、念のために見てみると・・・

歩9 (8)
何と、陸軍の文字が!!!これは珍しい境界石で、こんな指さしの形状の物は初めて見た。

歩9 (13)さらに坂を登る途中にも、境界石と思われる石柱が有ったが、埋まっていて詳細不明。

歩9 (6)火薬庫付近は、イノシシの罠が仕掛けてあったので、深入りせずに退散し、境界を調べるために墓地に入ると、移設された物であろう「陸軍省所轄地」の石柱が2本あった。

歩9 (4)
写真、向かって右の石柱

歩9 (2)
こちらは左の石柱。

なお、大津連隊区司令部跡憲兵隊跡では、遺構は見つけられなかった。

大津陸軍墓地再訪

大津陸軍墓地を再訪した。
高崎陸軍墓地を訪ねたレポートで、生兵の墓を見たのは大阪以来と書いたのだが、歩兵第15連隊に生兵がいたのに、歩兵第9連隊にいないはずがなく、見逃していたのではないか?と、気になっていた。
それ以外にも新たに気付いた事を紹介して行く。

大津陸軍墓地再訪 (2)
やはり生兵の墓は有った。

大津陸軍墓地再訪 (7)
こちらも、古い陸軍墓地では見かける名前だけのお墓。

大津陸軍墓地再訪 (5)お墓の並ぶ最後列には・・・

大津陸軍墓地再訪 (4)
初期の頃に使われた、カマボコ型の墓石がある。

大津陸軍墓地再訪 (6)これは、兵卒の墓に混じってある、士官候補生の墓。海軍では士官候補生(兵学校生徒)は兵曹長(陸軍では准尉と同等)の上との位置付けだったと思うのだが、陸軍は違うのか?

大津陸軍墓地再訪 (3)
これは、故陸軍歩兵二等卒となっている。故が付いたり、付かなかったり、これも時代によって違うのか?

大津陸軍墓地再訪
1等軍曹とかの名称や、1等卒から1等兵への名称の変更など、知らない事が多過ぎる。

八日市陸軍飛行場の掩体壕

飛行場跡地は現在、住宅地や畑になっていて、当時を偲ばせる物は少ない。
なお、近衛飛行隊と言われ、調布を本拠地としていた飛行第244戦隊はここで終戦を迎えている。
終戦間際の八日市飛行場の様子は、桜井隆氏のHP陸軍飛行第244戦隊 調布の空の勇士たちに詳しく紹介されている。

八日市掩体壕 (2)ここが飛行場だったと、お年寄りが教えてくれた。滑走路は写真左、山の方だった様だ。

八日市掩体壕 (4)飛行場の南には掩体壕が残っている。見ての通り、立ち入りが禁止されており、鉄条網が張られている。

八日市掩体壕 (5)現在は、竹藪に埋もれてしまっている。

八日市掩体壕 (3)大正飛行場の掩体壕と同様に、手前側が破壊されてしまっている。旧八日市市の作った説明板があり、そこには小型機用の掩体壕と書かれているが、かなり大きい。
この掩体壕の場所はこちら

八日市掩体壕もう1つの掩体壕。溜池の周りの遊歩道沿いにあり、見付け易い。

八日市掩体壕 (6)こちらも竹藪の中にあり、何が何やら状態である。

この掩体壕の場所はこの辺

八日市陸軍飛行場門柱

滋賀県東近江市には八日市陸軍飛行場があった。
八日市飛行場は最初、民間飛行場として造られたが、後に陸軍の飛行場となった。

冲原神社に由来碑があり、そこには『大正10年、飛行第3連隊が八日市に創設され、時の大隊長 後藤 元治が敬神の念とくに厚く、「隊員たちの安全と連隊の守護神」として、また当地の人々にも心の安らぎの場として、伊勢皇大神宮から御霊を奉し、大正14年衛戍神社を創祀された。のち昭和2年に冲原神社と改名された』(抜粋)と書かれている。

冲原神社 (7)神社の入口、燈篭には天壌と無窮の文字が彫られている。冲原神社の石碑は昭和2年に建てられているので、改名された時に作られた物だろう。

冲原神社鳥居をくぐると、その先にも燈篭がある。向かって右の燈篭は、大正9年~13年兵一同、左の燈篭は砲兵大佐 後藤 元治と地元の有力者と思われる(判読できず)人の奉納である。大正14年4月建立。これらは、神社が作られた時に奉納された物と思われる。

冲原神社 (2)
飛行第3戦隊戦友会が奉納した、99式双軽の絵が飾られている。

冲原神社 (3)手水鉢には大正9年兵退営紀念の文字がある。

冲原神社 (4)境内にある慰霊碑 この慰霊碑は、飛行第3戦隊、第49飛行場大隊、飛行第75戦隊、第35飛行場大隊、第8航空教育隊、第104教育飛行連隊、京都陸軍病院八日市分院、大阪陸軍航空廠八日市分廠、陸軍中央気象部八日市観測所、第36飛行場中隊の戦友会と、八日市航空史料保存協会、地元有志によって建立された。

冲原神社 (5)移設された門柱。詳細は不明であるが飛行場の物であることは間違いないだろう。

冲原神社 (6)
表札を掛けたフックと、ヒンジの部分が残っている。

冲原神社の場所はこちら
プロフィール

神崎 伸介

Author:神崎 伸介
酒とナマコ酢と、ニシンの塩焼きをこよなく愛し、日々全国の旧軍遺構を訪ね歩く橋本環奈が大好きな正統派変人です。

紹介する遺構の説明は正確を心がけてますが、間違いや情報があれば、是非とも教えてください。
また、ここで紹介する遺構は訪ねてから紹介するまでに、時間が経っている物も有り、必ずしも現状で無い場合がありますのでご注意ください。
本ブログに掲載されている写真の無断使用は禁止します。

Twitter始めました。@Kanreport0726

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