歩兵第1連隊門柱

さらに敷地内には、歩兵第1連隊の門柱と立哨小屋が移設されている。
歩兵第1連隊は明治6年5月に創設され、翌明治7年12月軍旗が親授された。
連隊は明治10年の西南戦争を皮切りに、日清戦争では旅順攻略戦に参加後、各地を転戦し明治28年5月に凱旋する。
日露戦争では金州、南山の戦闘に参加後、旅順攻略戦に参加、翌明治38年3月には奉天会戦に参加する。
大正12年9月に発生した関東大震災では治安維持、救護にあたる。
昭和11年2月に発生した2・26事件には一部の将兵が関与した。
同年5月には満州派遣され、翌年7月に勃発した日中戦争では、万里の長城線を越えて大同まで進出した。
同年10月からはソ満国境警備にあたり、翌13年には孫呉に移り対ソ戦に備える。
昭和14年に勃発したノモンハン事件に参加後は、孫呉に留まり、太平洋戦争末期の昭和19年8月に同地を出発、11月にレイテ島オルモックに上陸、圧倒的に優勢なる米軍と遭遇し過半数の死傷者を出す。
その後は、セブ島への転進命令を受けるも、セブ島にたどり着いたのは連隊長以下72名のみで、終戦時の生存者は39名だけであった。(ノーベル書房、「わが聯隊」から抜粋)

歩1門柱 (2)
歩兵第1連隊の兵営は現在、東京ミッドタウンになっている。元々、毛利藩の屋敷跡に明治6年、兵営が置かれた。
関東大震災では連隊本部などが被害を受け、昭和4年8月に連隊本部とこの営門が建てられた。

歩1門柱 (4)
反対側から見る。昭和初期の建築だからか、軍の施設とは思えない斬新的な造りである。

歩1門柱 (3)
裏側を見る。

歩1門柱
立哨小屋 連隊本部や門柱と同じデザインで、おそらく同じ物は全国を探してもここだけだろう。

さて、この門柱であるが、防衛省の行っている施設見学(市ヶ谷台ツアー)で見る事が出来るが。午前と午後では見学コースが違い、午前のコースでしか見学できないので、申し込む際はご注意を。

市ヶ谷台ツアーの詳細はこちら
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陸軍士官学校演習用観測所

慰霊碑が並ぶメモリアルゾーンの一角には、観測所が残っている。
これは市ヶ谷に陸軍士官学校があった時に、士官学校生徒の教育用の物と思われる。
タイトルは演習用観測所としたが、詳細は不明である。

市ヶ谷観測所 (3)
観測所全景。詳細は不明だが、八八式海岸射撃具が備えられたいたのだろうか?
形状は半円が2つ付いていて、Bの形である。

市ヶ谷観測所
向かって左の観測窓

市ヶ谷観測所 (2)
こちらは右の観測窓

さて、この観測所であるが説明板もなく、また、案内もされないので、見学希望者は案内人に見たい旨を先に伝えておいた方が良いかもしれない。

陸軍士官学校境界石

防衛省と市ヶ谷亀岡八幡宮の境界には、3本の境界石が残っている。
陸軍士官学校時代に設置された物だと推測するので、陸軍士官学校境界石とした。

市ヶ谷境界石
八幡宮の正面から入り、突き当りを右に曲がった付近にある1本目の境界石。

市ヶ谷境界石 (2)
陸軍用地と書かれている。

市ヶ谷境界石 (3)
こちらは2本目 こちらも陸軍用地。1本目とは陸の字体が違う。

市ヶ谷境界石 (4)
3本目は、陸軍省所轄地と書かれている。これが一番古い物か?

陸軍士官学校境界石群はこの付近

陸軍士官学校本部

現在、防衛省のある市ヶ谷には、かつて陸軍士官学校があった。
陸軍士官学校は明治7年に作られ、翌8年に第一期生が入校以来、約70年この地にあった。
この間、市ヶ谷台と言えば、陸軍士官学校の代名詞であるほど、慣れ親しまれた。
陸軍士官学校は幾度か制度を変えることになるが、大正9年には同じ市ヶ谷にあった陸軍中央幼年学校が陸軍士官学校予科に、それまでの陸軍士官学校が陸軍士官学校本科になる。
しかし、昭和12年に、陸軍士官学校本科は陸軍士官学校に戻され座間に移転となる。さらに、陸軍士官学校予科は陸軍予科士官学校となり、こちらは昭和16年、朝霞に移転する。
これらは急増した生徒を、市ヶ谷のみで教育できなくなったからではなかろうか?
士官学校が去った市ヶ谷には、陸軍省、陸軍参謀本部が移転して来て、その後は大本営陸軍部となる。

陸軍士官学校本部 (8)
昭和9年に建てられた1号館は、戦後は東京裁判にも使われた。しかし、老朽化のために取り壊されそうになったが、保存運動もあり、現在は縮小移設されて、市ヶ谷記念館として公開されている。

陸軍士官学校本部 (6)
正面付近から見る。

陸軍士官学校本部 (7)
内部の様子。写真撮影は可能だがフラッシュの使用は不可のため、ブレてしまい使える写真は少なかった。

陸軍士官学校本部
玉座

陸軍士官学校本部 (3)
床も当時の物をちゃんと記録して、復元している。

陸軍士官学校本部 (5)
天井の様子

陸軍士官学校本部 (4)
便殿の間(天皇陛下のご休憩所)の扉

陸軍士官学校本部 (9)
陸軍大臣室の窓。大臣室になったのは参謀本部になってからだと思われる。

陸軍士官学校本部 (10)
バルコニー、ここで三島由紀夫が檄を飛ばした。

近衛歩兵第4連隊

現在の都立青山高校、国学院高校付近は近衛歩兵第4連隊の兵営があった。
近衛歩兵第4連隊は、明治19年6月近衛都督府の下に創設され、翌20年編成を完了、当初は霞が関に兵営を置いたが、明治24年に青山に転営した。
連隊は、日清戦争には明治28年4月出動、大連に到着するも講和のために、戦後の警備にあたり、そのまま、台湾鎮定に出動。11月下旬に半年ぶりに凱旋した。
明治37年ロシアと国交が断絶されると同時に動員下令され、広島に集結し3月に出港、朝鮮半島に上陸する。
その後は転戦を重ね、遼陽を占領し、奉天戦に参加した。
昭和に入り、昭和10年2月に第1中隊を満州に派出するも、12月に歩兵砲中隊を新設補充した。
日中戦争では、昭和15年6月出動、南寧の警備にあたり、昭和16年7月仏印作戦ではサイゴンまで進出し、次のマレー作戦に備えた。
太平洋戦争勃発により、連隊主力は陸路、第3中隊は海路バンコクに進駐、すぐにマレー侵攻戦を行った。
昭和17年2月、スマトラ東岸に上陸、以後敵の上陸に備えたが、この地で終戦を迎えた。
(ノーベル書房、「わが聯隊」から抜粋)

連隊跡地遺構は無いが、境界石が残っている。

近歩4
道路の一角にそれはある。

近歩4 (2)
「陸軍」だけ書かれているように見える。

近歩4 (4)
以前はもっと残っていたようだが、最近になって消失したようで、付近を見渡すと・・・

近歩4 (3)
陸軍省所轄地の境界石が置かれていた。初期の物と推測する。
これが最近になって消失した物か、また、現在もこの位置に置かれているかは不明

近衛歩兵第4連隊

国家の千城数ある中に
わけても君恩光栄鍾め
帝都の中央大内山を
朝夕仰ぎ志繰を堅む
天顔咫尺に儀伏を勤め
九重近くも守衛を果たし
青山原頭雄建び奮ふ
我等は近衛の四連隊ぞ

近衛歩兵第4連隊境界石の場所はこちら
プロフィール

神崎 伸介

Author:神崎 伸介
酒とミル貝刺と、手羽先をこよなく愛し、日々全国の旧軍遺構を訪ね歩く自他共に認める変わり者です。

紹介する遺構の説明は正確を心がけてますが、間違いや情報があれば、是非とも教えてください。
また、ここで紹介する遺構は訪ねてから紹介するまでに、時間が経っている物も有り、必ずしも現状で無い場合がありますのでご注意ください。
本ブログに掲載されている写真の無断使用は禁止します。

Twitter始めました。@Kanreport0726

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