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青戸高射砲台

葛飾区白鳥には陸軍の高射砲台があった。
これは、戦争が激しくなるにつれ、葛飾区内の工場は軍需工場に指定され、それらを守るために設置されたもので、現在は砲座と言われる物が残っている。
さて、この砲台であるが、詳細な史料が見つけられず、「葛飾区史」には、青戸には陸軍の高射砲陣地が築かれ、と書かれているため青戸高射砲台と呼称する。

青戸防空砲台 (3)
1つ目の砲座。駐車場に残っている。

青戸防空砲台 (4)
周りはコンクリートで舗装されているが、砲座は分かる。

青戸防空砲台 (5)
砲床部分。砲床は八角形だったようである。

青戸防空砲台 (6)
2つ目の砲座

青戸防空砲台 (7)
半分のみ見える。
アパート住民の方にお願いして立ち入らせてもらいました。

青戸防空砲台 (9)
3つ目の砲座。こちらは断面だけが確認できる。

青戸防空砲台 (10)
反対側から見る。

青戸防空砲台 (11)
ボルト止であろうか?金具が残る。

青戸防空砲台 (12)
4つ目の砲座。こちらが砲座跡のようで、砲床部分のみアスファルトで舗装されている。
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野戦砲兵第1連隊兵舎

世田谷区下馬には、野戦砲兵第1連隊の兵舎が残っている。
現在はオシャレな街と知れ渡っている三軒茶屋、三宿付近は陸軍の兵営や演習場であった。
今では信じられないが、明治初期、現在の新宿区や港区、渋谷区付近には多くの兵営と演習場があった。
しかし、当初は何も無かったこの付近も、人口が増加してくると何かと問題も多くなり、郊外に移転する事になった。
その結果、比較的近く、当時は原野で住民も少なかった世田谷の地が選ばれた。

野戦砲兵第1連隊は、明治5年に東京鎮台第3砲兵隊として創設され、明治10年には西南戦争に出陣し、明治17年、砲兵第1連隊に明治21年、野戦砲兵第1連隊に改編され、日清、日露の戦役に動員下令された。
明治41年、この地に転営。しかし、昭和11年、満州に駐箚し、満州の防備の任に就いていたが、昭和19年に南方派遣が命じられ、第3大隊をグアム島に派出するも、後に玉砕する。
連隊本隊もフィリピンに転進となり、レイテ作戦に参加するも、優勢なる米軍を相手に次第に追い詰められ、セブ島へ転進。
セブ島で終戦を迎える。
今回紹介する写真は平成21年のもので、現状とは一致しないかもしれませんので、御注意ください。

野砲兵1連隊兵舎  (2)
兵舎は東京世田谷韓国会館として使われている。

 野砲兵1連隊兵舎
戦後は住宅として使われた時期もあったようで、内部はかなり改装されているのでは?

 野砲兵1連隊兵舎  (3)
兵舎は平屋建てなのだろうか?外観は大きくは変わってないと思われる。

 野砲兵1連隊兵舎  (4)
写真では判り難いが、建物はかなり傷んでいる。

 野砲兵1連隊兵舎  (5)
兵舎の基礎はレンガである。

陸軍軍医学校

靖国神社のすぐ北の千代田区富士見町には、陸軍軍医学校の物と言われる境界石が残っている。
陸軍軍医学校は明治19年陸軍省内に作られ、明治21年1月、この地に移転した。
しかし、関東大震災で大きな被害を受け、昭和4年に戸山に移転した。
私が所有する明治40年の麹町区の地図(復刻版のコピー)には、この境界石のある場所が軍医学校南東端になっている。

陸軍軍医学校 (3)
境界石 一部が砕けてしまい状態は悪い。
付近には朝鮮総連があり、警察が常時警備しているとの事前情報を得ていたのだが、実際に行くと物々しい雰囲気であり、職質されたらどうしよう?と不安を覚えた。

陸軍軍医学校 (1)
陸軍用地と書かれている。

陸軍軍医学校 (2)
頂部 +が書かれている。

歩兵第1連隊門柱

さらに敷地内には、歩兵第1連隊の門柱と立哨小屋が移設されている。
歩兵第1連隊は明治6年5月に創設され、翌明治7年12月軍旗が親授された。
連隊は明治10年の西南戦争を皮切りに、日清戦争では旅順攻略戦に参加後、各地を転戦し明治28年5月に凱旋する。
日露戦争では金州、南山の戦闘に参加後、旅順攻略戦に参加、翌明治38年3月には奉天会戦に参加する。
大正12年9月に発生した関東大震災では治安維持、救護にあたる。
昭和11年2月に発生した2・26事件には一部の将兵が関与した。
同年5月には満州派遣され、翌年7月に勃発した日中戦争では、万里の長城線を越えて大同まで進出した。
同年10月からはソ満国境警備にあたり、翌13年には孫呉に移り対ソ戦に備える。
昭和14年に勃発したノモンハン事件に参加後は、孫呉に留まり、太平洋戦争末期の昭和19年8月に同地を出発、11月にレイテ島オルモックに上陸、圧倒的に優勢なる米軍と遭遇し過半数の死傷者を出す。
その後は、セブ島への転進命令を受けるも、セブ島にたどり着いたのは連隊長以下72名のみで、終戦時の生存者は39名だけであった。(ノーベル書房、「わが聯隊」から抜粋)

歩1門柱 (2)
歩兵第1連隊の兵営は現在、東京ミッドタウンになっている。元々、毛利藩の屋敷跡に明治6年、兵営が置かれた。
関東大震災では連隊本部などが被害を受け、昭和4年8月に連隊本部とこの営門が建てられた。

歩1門柱 (4)
反対側から見る。昭和初期の建築だからか、軍の施設とは思えない斬新的な造りである。

歩1門柱 (3)
裏側を見る。

歩1門柱
立哨小屋 連隊本部や門柱と同じデザインで、おそらく同じ物は全国を探してもここだけだろう。

さて、この門柱であるが、防衛省の行っている施設見学(市ヶ谷台ツアー)で見る事が出来るが。午前と午後では見学コースが違い、午前のコースでしか見学できないので、申し込む際はご注意を。

陸軍士官学校演習用観測所

慰霊碑が並ぶメモリアルゾーンの一角には、観測所が残っている。
これは市ヶ谷に陸軍士官学校があった時に、士官学校生徒の教育用の物と思われる。
タイトルは演習用観測所としたが、詳細は不明である。

市ヶ谷観測所 (3)
観測所全景。詳細は不明だが、八八式海岸射撃具が備えられたいたのだろうか?
形状は半円が2つ付いていて、Bの形である。

市ヶ谷観測所
向かって左の観測窓

市ヶ谷観測所 (2)
こちらは右の観測窓

さて、この観測所であるが説明板もなく、また、案内もされないので、見学希望者は案内人に見たい旨を先に伝えておいた方が良いかもしれない。
プロフィール

kan

Author:kan
酒とナマコ酢と、ミル貝刺をこよなく愛し、全国の旧軍遺構を訪ね歩く、自他共に認める正統派の変人です。
変人ですが、「変態!」と言われると烈火の如く怒ります。
腰はガラスの腰と言われ、定期的に壊れます!

紹介する遺構の説明は正確を心がけてますが、間違いや情報があれば、是非とも教えてください。
基本、酒を飲んでブログを書いてます。誤字や文章がおかしい時は、かなり酔っていると思ってください。
また、ここで紹介する遺構は訪ねてから紹介するまでに、時間が経っている物や、すでに消失している物も有り、必ずしも現状で無い場合がありますのでご注意ください。
本ブログに掲載されている写真の無断使用は禁止します。
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また、使用を許可した場合でも、本ブログ名を明記してください。

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