【コラム】第31回 伯父からの手紙
私は過去に祖父の軍隊生活や、伯父の軍隊生活を紹介しましたが、もう一人、戦争の話をしてくれた伯父がいます。
伯父は母の姉の旦那さんで、横須賀海軍工廠に勤めていました。
何分、古い話なので私が手紙をもらった経緯をはっきりとは覚えてませんが、就職して新入社員教育がおわり勤務地が神奈川県内に決まったので挨拶状を出した、返事だと思います。
私(伯父)も以前は神奈川県横須賀にいた。から始まり、思い出を書き綴ってくれました。
伯父は10年以上前に亡くなりましたが、手紙の内容を記し故人を偲びたいと思います。
(前略)
私は昔、軍隊に入る前に横須賀海軍工廠で色々の軍艦を造り、又海戦で傷んだ数多くの艦を昼夜頑張って修理、戦場に送りました。特に心に残るのは一一〇号艦建造です。
苦労多くして造った艦が進水式を目の前にして、第六号ドック扉(水門)調水悪く半調で水門扉が浮き上がり、海水がドック内に激流して押し流されて、前部と後部事故になり、修理のため進水式遅れる。
又出来てから東京湾内試乗運転等。
呉に回送中敵潜魚雷により、潮岬沖世界一の空母が波間に消えたと聞いた時は、只々誰もが涙有るのみでした。
横須賀は私には苦労の多い地なれど今は懐かしい。
衣笠駅手前の池上町に海軍工廠の寄宿舎が有りました。そこから雨の日、風の日も歩いて通勤。工廠の入口は横須賀海軍鎮守府正門の横から入って行きました。
昭和十八年四月末か五月頃と思うが、工廠の第五ドックに航空母艦(飛鷹)が入って来た。見ると食糧庫と汽罐部(缶室)に敵の魚雷二本喰らって大きな損傷を受けて入って来た。それを昼夜修理に懸命でした。修理終了後は、何日出港か見なかったが、終戦後、私の弟が南方から帰って来ての話。
昭和十八年の暮れ頃、シンガポールから乗艦してボルネオまで行ったとの事でした。
(弟は十六歳、ボルネオの石油掘削に行った時のこと)
又潜水艦では、伊16潜 機関部の修理と試乗運転、東京湾は水深浅く、急速潜航訓練は思うように出来なかったが、両舷メンタンクのバルプ開閉訓練で終わる。ただ、艦内は狭く、勤務以外の人は動く事は厳禁され、暑さにまいった事がありました。
色々と兵科がありましたが、飛行機乗りと、海中にての勤務は丈夫な体と忍耐が必要でしょうね。
(後略)
手紙に書かれてはいないが、生前に話してくれた事も紹介します。
「飛鷹(空母)が駆逐艦を横抱きしながら、傾いて入ってきた。すぐに入渠して機関室に入ったら、逃げ遅れた機関科兵の死体がそのままあった。みんな閉められたハッチを開けようとしていたのか、最後は苦しくてハッチを掻きむしり、みんな爪がはがれて無かった。」
「制裁されているのをよく見た。内部事情を知っているだけに徴兵が来た時、海軍に入れば下士官待遇で入れたけど、どうしても嫌で陸軍を希望した。そうしたら、それがバレて大変だった。」
今となってはもうこれ以上の話を聞く事は出来ませんが、伯父も天国でこれを見て、昔を懐かしんでくれているかもしれません。
伯父は母の姉の旦那さんで、横須賀海軍工廠に勤めていました。
何分、古い話なので私が手紙をもらった経緯をはっきりとは覚えてませんが、就職して新入社員教育がおわり勤務地が神奈川県内に決まったので挨拶状を出した、返事だと思います。
私(伯父)も以前は神奈川県横須賀にいた。から始まり、思い出を書き綴ってくれました。
伯父は10年以上前に亡くなりましたが、手紙の内容を記し故人を偲びたいと思います。
(前略)
私は昔、軍隊に入る前に横須賀海軍工廠で色々の軍艦を造り、又海戦で傷んだ数多くの艦を昼夜頑張って修理、戦場に送りました。特に心に残るのは一一〇号艦建造です。
苦労多くして造った艦が進水式を目の前にして、第六号ドック扉(水門)調水悪く半調で水門扉が浮き上がり、海水がドック内に激流して押し流されて、前部と後部事故になり、修理のため進水式遅れる。
又出来てから東京湾内試乗運転等。
呉に回送中敵潜魚雷により、潮岬沖世界一の空母が波間に消えたと聞いた時は、只々誰もが涙有るのみでした。
横須賀は私には苦労の多い地なれど今は懐かしい。
衣笠駅手前の池上町に海軍工廠の寄宿舎が有りました。そこから雨の日、風の日も歩いて通勤。工廠の入口は横須賀海軍鎮守府正門の横から入って行きました。
昭和十八年四月末か五月頃と思うが、工廠の第五ドックに航空母艦(飛鷹)が入って来た。見ると食糧庫と汽罐部(缶室)に敵の魚雷二本喰らって大きな損傷を受けて入って来た。それを昼夜修理に懸命でした。修理終了後は、何日出港か見なかったが、終戦後、私の弟が南方から帰って来ての話。
昭和十八年の暮れ頃、シンガポールから乗艦してボルネオまで行ったとの事でした。
(弟は十六歳、ボルネオの石油掘削に行った時のこと)
又潜水艦では、伊16潜 機関部の修理と試乗運転、東京湾は水深浅く、急速潜航訓練は思うように出来なかったが、両舷メンタンクのバルプ開閉訓練で終わる。ただ、艦内は狭く、勤務以外の人は動く事は厳禁され、暑さにまいった事がありました。
色々と兵科がありましたが、飛行機乗りと、海中にての勤務は丈夫な体と忍耐が必要でしょうね。
(後略)
手紙に書かれてはいないが、生前に話してくれた事も紹介します。
「飛鷹(空母)が駆逐艦を横抱きしながら、傾いて入ってきた。すぐに入渠して機関室に入ったら、逃げ遅れた機関科兵の死体がそのままあった。みんな閉められたハッチを開けようとしていたのか、最後は苦しくてハッチを掻きむしり、みんな爪がはがれて無かった。」
「制裁されているのをよく見た。内部事情を知っているだけに徴兵が来た時、海軍に入れば下士官待遇で入れたけど、どうしても嫌で陸軍を希望した。そうしたら、それがバレて大変だった。」
今となってはもうこれ以上の話を聞く事は出来ませんが、伯父も天国でこれを見て、昔を懐かしんでくれているかもしれません。
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