甲山防空監視哨

広島県世羅町には、甲山防空監視哨が残っている。
甲山防空監視哨の正式名称は、「尾道防空監視隊第十三番甲山防空監視哨」であり、昭和17年に造られた。
毎日8名が、2名ずつ2時間交代で昼夜通して監視し、昭和20年、広島に原爆が投下されたときは、飛来機をいちはやく発見通報しており、爆発時のものすごい閃光も目撃している。(案内板から抜粋)

さて、この甲山防空監視哨探訪はここ最近の探訪では肉体的にも、精神的にも一番キツかった。
その訳は・・・

甲山監視哨 (15)
今高野山参拝の駐車場に車を停めさせてもらい、監視哨を目指す。
途中、池の噴水が凍っている。

甲山監視哨 (1)
その先には、砲弾を模した「日露戦役記念碑」がある。

甲山監視哨 (12)
写真では見難いが、案内があるのがお判りだろうか?

甲山監視哨 (13)
この案内を見逃したばかりに・・・

甲山監視哨 (14)
コイツを見逃したばかりに・・・
その後は道無き道を進み、真冬だというのに汗を流して山を登った。それは、この先に監視哨があると信じていたから。
その山のてっぺんに登っても展望台は無い!しばらく彷徨うと、向かいに見える山の頂上に展望台が見えた・・・
ただ、この時点でも間違いに気付いてないので、そのまま進み、結果的には行き着けたのだが・・・

甲山監視哨 (11)
正しい道を行けば、案内板がある。

甲山監視哨 (2)
やっとの思いでたどり着いた。
監視哨の基礎部は石積みである。

甲山監視哨 (9)
正面から見る。

甲山監視哨 (5)
当時の物だろうか?鉄筋の基礎が残っている。

甲山監視哨 (4)
監視哨入り口の様子

甲山監視哨 (7)
監視哨の様子

甲山監視哨 (8)
反対から見る。周りは金網に囲まれていて見難い。

甲山監視哨 (6)
内部の様子。哨舎は復元のようだ。

甲山監視哨 (10)
かなり痛みがある。

甲山防空監視哨への登り口(駐車場)の場所はこちら
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【コラム】第11回 魅島への誘い

紀伊水道に浮かぶ友ヶ島。
拙ブログを御覧になられている方には釈迦に説法だが、ここには明治期に造られた砲台が多数残っています。
ただ、友ヶ島という島はなく、地ノ島、神島、沖ノ島、虎島の総称であり、沖ノ島、虎島に砲台が造られました。
魅島と名付けましたが、この友ヶ島の遺構探訪は一筋縄ではいきません!
大阪や和歌山など近畿にお住まいの方なら別ですが、それ以外の地域から訪ねるには困難があります。
その困難とは・・・

魅島への誘い (2)

1.島に渡れるか分からない。
橋の無い島なので船で渡らなければなりませんが、この渡船がクセ者です。
こちらをご覧ください。
遺構探索のシーズンである冬場は、12/29 ~ 1/3を除く、土曜・日曜・祝日に運航してます。
ですので、この期間は基本、土日しか島には渡れません。
しかし、落とし穴が!
過去に訪れた時、なんと渡船がドック入りの運休しており、島に渡れませんでした。
また、知人は友ヶ島に行くために和歌山に出掛けたけど、天候不良で欠航し渡ることが出来なかったそうです。
島に渡れたけど、天候の急変で帰り便が早くなることもありました。
島に渡れるかは運次第です・・・

ただ、島に渡れなくても悲観するなかれ、和歌山(本州)側にもたくさんの砲台や堡塁、その他の遺構が残ってますから!

魅島への誘い (3)

2.1日では周れない。
幸運にも友ヶ島に渡れたとしても、試練は続きます。
友ヶ島は平坦な島ではなくアップダウンが多いです。
そこで低砲台と高砲台を行ったり来たりすると、余程の健脚自慢でないと膝ガクガクです!
また、虎島には満潮時には渡れないようなので、潮が引いている時間帯に渡らなければならなく、行くには潮の時間を最優先しなければならず、効果的に周れません。
ただ行くだけなら行けるかもしれませんが、砲台を詳しく見たら一日で全遺構は無理だと思います。
もちろん、拙ブログを御覧の方なら砲台の隅々まで見られるでしょうから、一日で島を周ることは無理でしょうね!
遺構を半分だけ見ても次の日は、脚がパンパンでした。
島の遺構を全部見るには、最低でも2日は必要です。

魅島への誘い (4)

3.備え無くして。
初めて島に渡ったのは秋でした。その後に渡った時にも自販機はありました。
冬に行った時、その感覚で飲み物を持たずに島に渡ったら、自販機は撤去されており、水分補給なしで過ごしたことがあります。
島に渡る前には、最低限の用意は必要ですね。

魅島への誘い (1)
                                                     つづく

歩兵第41連隊門柱

以前に紹介した歩兵第41連隊の門柱が移設されている。
実は移設されたとの話は聞いていたが、どこに移設されたかは知らなかった。

福山陸軍病院の門柱を見た後、海後山の高射砲陣地を見に行こうとカーナビをセットした。
カーナビは進行方向が上になるヘッドアップ式で使っていたが、次の目的地を入れるために地図と同じように、北が上になるノースアップ式に変えて目的地を入れた。
しかし、そのままノースアップで発進してしまい、勘違いから右折のところを左折してしまった。
ナビがすぐに左折して元のコースに戻そうとするが、急停車になるのでスルー。
次の道を左折した。その先で信号待ちをしていると、レンガの門柱が見えた。
最初はスルーしようかと思ったが、とても気になる。
ショッピングモールの一角にあり、駐車場もあるので立ち寄ることにした。
なんと、これが移設した歩兵第41連隊の門柱であった。

歩41移設門柱 (1)
最初に門柱を見たのは、こんな感じ。

歩41移設門柱 (2)
反対側から見る。光が差し込んでしまった。

歩41移設門柱 (4)
外から見て右の門柱 門柱の向きは直されているが、内側に表札が付けられている残念な状態は変わらない。

歩41移設門柱 (3)
左の門柱 状態は悪くはない。

歩41移設門柱 (5)
内側から見る。この門柱が移設されたのは、兵営の角にあたる場所であり、角に出入り口は設置しなかったと思うので、オリジナルの場所では無いと思う。

こんなことを書くと笑われるかも知れないが、今回、この門柱にたどり着いたのはいくつもの偶然が重なっている。
ナビを見間違えて左折し、すぐに左折できなくて次の角を曲がると信号待ち、そこでこの門柱に気付いたのは、何かが私をこの門柱に導いてくれたとしか思えない。遺構探索の神に感謝する。

歩兵第41連隊、移設された門柱の場所はこちら

福山陸軍病院

福山市沖野上町にある、「独立行政法人国立病院機構福山医療センター」には、福山陸軍病院の門柱がある。
この、「独立行政法人国立病院機構福山医療センター」について調べると、Wikipediaには
1908年 福山衛戍病院として創設
1937年 福山陸軍病院となる
1945年 陸軍解体により厚生省所管となる。国立福山病院として発足
1966年 現在地に移転 とある。
調査不足で申し訳ないが、1966年(昭和41年)に病院を移転する際に門柱も移転したのだろうか?

福山陸軍病院 (1)
門柱を正面から見る。

福山陸軍病院 (4)
アップで見る。

福山陸軍病院 (2)
向かって右の門柱

福山陸軍病院 (3)
こちらは左の門柱

福山陸軍病院 (5)
内側から見る。

福山陸軍病院 (6)
正面向かって右側の門柱は、福山空襲で焼けた跡が残っている。(と言われる。)

福山陸軍病院門柱の場所はこちら

空はどこまでも青く、僕らは底抜けに明るかった

拙ブログを御覧くださっている、細田京香さんが「陸軍少年飛行兵」に関する本を出しました。
内容は飛行機に乗りたい若者が、東京の航空学校に入校し、飛行兵になり、終戦を迎えるまでをご本人さんたちの体験談をおりまぜまとめたものです。
タイトル「空はどこまでも青く、僕らは底抜けに明るかった」 細田京香著 A5判 370ページ 定価1,500円(税別)
購入先 鳥取県米子市新開2-3-10 本の学校 今井ブックセンター TEL 0859-31-5000 
販売期間 2018年9月30日(日)までです。

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プロフィール

kan

Author:kan
酒とナマコ酢と、ミル貝刺をこよなく愛し、日々全国の旧軍遺構を訪ね歩く自他共に認める、正統派の変人です。


紹介する遺構の説明は正確を心がけてますが、間違いや情報があれば、是非とも教えてください。
基本、酒を飲んでブログを書いてます。文章がおかしい時は、かなり酔っていると思ってください。
また、ここで紹介する遺構は訪ねてから紹介するまでに、時間が経っている物も有り、必ずしも現状で無い場合がありますのでご注意ください。
本ブログに掲載されている写真の無断使用は禁止します。

Twitter始めました。@Kanreport0726

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